高知城③ 天守閣と桜 [城]
本丸に上がる。桜がほぼ満開に近い状態である。
本丸の桜
天守閣と桜高知城の歴史について、述べる。
南北朝時代に南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、この地(大高坂山)に城を構え、大高坂山城と称したのが始まりである。延元3年(1338年)に後醍醐天皇の第七子・満良親王を迎えるが、興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦い落城した。
その後、長宗我部元親が、豊臣秀吉より土佐国一国を安堵され、秀吉に従軍して九州遠征の後、天正15年(1587年)にこの地に築城した。しかし、天正19年(1591年)、元親は、わずか3年で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を建設した。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易されると、代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
慶長6年(1601年)8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、百々綱家を総奉行に任じ、翌月より大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備の為に鏡川・江の口川など川の治水工事に着手した。
慶長8年(1603年)、本丸と二の丸が完成。一豊は9月26日入城した。この際に、真如寺の僧・在川により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
慶長15年(1610年)、洪水が相次いだため、第二代藩主・山内忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名した。後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、三の丸が竣工し、高知城が完成した。
享保12年(1727年)、高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失した。
享保14年(1729年)、第八代藩主・山内豊敷は、深尾帯刀を普請奉行に任じ、城の再建に着手、寛延元年(1748年)、天守ほか櫓・門などが完成、天守は小振りとなったが焼失前と酷似した外観が保たれた。 そして、宝暦3年(1753年)、再建完了した。現在見られる建造物の大半は、この時に再建された物である。
黒鉄門
柱、門扉などに多数の小鉄板が打ちつけてあるので黒鉄門と名付けられている。
天守閣と本丸正殿
本丸の書院は正殿、溜の間、玄関からなり、右手に藩の重要書類を収蔵した納戸蔵がある。正殿には一段高くした藩主座敷の上段の間があり、西側は武者隠しに通じる納戸で小襖をとりつけてある。襖には金箔押しの八双金具が打ちつけられてある。
天守閣と本丸正殿の入口
玄関を入ったところに、一昨年の大河ドラマ「功名が辻」のタペストリーのようなものが展示してあった。
天守閣の中は、昔の城下町の様子が模型で展示してある。上の階に進むと例によって、日本全国のお城の写真が飾ってある。行ったことのあるお城がどれだけあるか、改めて眺めてみる。
一番上階は、展望室になっている。
城内と市内を見下ろすことが出来る。
書院
最後にもう一度桜と天守閣を見て、帰路につく。
天守閣を見上げる。
(完)
本丸の桜
天守閣と桜高知城の歴史について、述べる。
南北朝時代に南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、この地(大高坂山)に城を構え、大高坂山城と称したのが始まりである。延元3年(1338年)に後醍醐天皇の第七子・満良親王を迎えるが、興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦い落城した。
その後、長宗我部元親が、豊臣秀吉より土佐国一国を安堵され、秀吉に従軍して九州遠征の後、天正15年(1587年)にこの地に築城した。しかし、天正19年(1591年)、元親は、わずか3年で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を建設した。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易されると、代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
慶長6年(1601年)8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、百々綱家を総奉行に任じ、翌月より大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備の為に鏡川・江の口川など川の治水工事に着手した。
慶長8年(1603年)、本丸と二の丸が完成。一豊は9月26日入城した。この際に、真如寺の僧・在川により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
慶長15年(1610年)、洪水が相次いだため、第二代藩主・山内忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名した。後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、三の丸が竣工し、高知城が完成した。
享保12年(1727年)、高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失した。
享保14年(1729年)、第八代藩主・山内豊敷は、深尾帯刀を普請奉行に任じ、城の再建に着手、寛延元年(1748年)、天守ほか櫓・門などが完成、天守は小振りとなったが焼失前と酷似した外観が保たれた。 そして、宝暦3年(1753年)、再建完了した。現在見られる建造物の大半は、この時に再建された物である。
黒鉄門
柱、門扉などに多数の小鉄板が打ちつけてあるので黒鉄門と名付けられている。
天守閣と本丸正殿
本丸の書院は正殿、溜の間、玄関からなり、右手に藩の重要書類を収蔵した納戸蔵がある。正殿には一段高くした藩主座敷の上段の間があり、西側は武者隠しに通じる納戸で小襖をとりつけてある。襖には金箔押しの八双金具が打ちつけられてある。
天守閣と本丸正殿の入口
玄関を入ったところに、一昨年の大河ドラマ「功名が辻」のタペストリーのようなものが展示してあった。
天守閣の中は、昔の城下町の様子が模型で展示してある。上の階に進むと例によって、日本全国のお城の写真が飾ってある。行ったことのあるお城がどれだけあるか、改めて眺めてみる。
一番上階は、展望室になっている。
城内と市内を見下ろすことが出来る。
書院
最後にもう一度桜と天守閣を見て、帰路につく。
天守閣を見上げる。
(完)
江戸時代の再建とはいえ、風格のある天守です。
お城に桜はよく似合いますね。
私も先日、旧江戸城、千鳥ヶ淵の桜を撮ってきました。
by レイン (2008-04-02 06:46)
高知城、存在すら知りませんでした ^^;
お城かー小田原城は高速から見ただけだし
大阪城も名古屋も行ったことないかも。。。
中を見たのは伊賀上野の行った時だから、あれは・・・?
by ももず (2008-04-02 16:29)
一見、小ぶりに見えますが見応えのあるお城なんですね。
お城好きのマイケルさんにはどうだったのでしょうか。
桜も満開なのですね。京都には来られるのですか。
by ミモザ (2008-04-02 16:58)
レイン さん
桜、少し早かったのかもしれません。
by マイケル (2008-04-02 21:47)
ももず さん
世の中、お城ファンは意外に多いですね。
by マイケル (2008-04-02 21:49)
ミモザ さん
数少ない重要文化財のお城なので、前から訪れたいと思っていました。
満足です。
今年は京都の桜は行けないかもしれません。
再来週辺りまだ花が残っていれば行けるかもしれません。
by マイケル (2008-04-02 21:54)
こんばんは(^^)
高知城懐かしいです~♪
桜の時期とても綺麗ですね。
by 雪洞 (2008-04-02 21:58)
雪洞さん
桜とお城、よく合います。
by マイケル (2008-04-03 00:35)
お城とサクラって妙に合いますよねぇw
by ふじかわ (2008-04-11 10:50)