SSブログ

平等院鳳凰堂② 源頼政 [神社仏閣]

鳳翔館を出ると、真っ赤な鐘楼がある。

鐘楼.jpg

梵鐘は、鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作である。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施している。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平等院」と謳われ、神護寺、園城寺(三井寺)の鐘とともに、「天下の三名鐘」に数えられている。現在鐘楼にある梵鐘は複製で、実物は鳳翔館に収蔵されている。この梵鐘は1980年11月25日発行の60円普通切手のデザインにも採用されている。

鳳凰堂は、本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟からなる。

鳳翔館の出口から、ちょうど尾廊を眺めることが出来る。

鳳凰堂の裏手.jpg
尾廊

鳳凰堂の西側には、天台宗系の最勝院と浄土宗の浄土院という2つの寺院があり、この2つの寺院が平等院を共同管理している。浄土院は明応年間(1492年-1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。

浄土院.jpg
浄土院

最勝院の中に、不動堂がある。

不動堂.jpg
不動堂
延久5年(1073年)、右大臣源師房(頼通養子)によって建立。鳳凰堂の南西方にあった。

不動堂の横に、源頼政の墓がある。

頼政の墓.jpg
頼政の墓

源 頼政は、平安時代末期の武将・歌人である。源頼光の系統の摂津源氏で、源仲政の長男。平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。

保元の乱、平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇る。だが、平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

挙兵の動機について、『平家物語』では嫡男仲綱の馬を巡って清盛の三男の宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけたことになっている。

合戦では、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も辞世の句を残し渡辺唱の介錯で腹を切って自害した。享年77。

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりけり」

以仁王は脱出したが、追いつかれて討ち取られた。頼政と以仁王の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝、源義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。

頼政の末子の源広綱や、仲綱の子の源有綱・源成綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した源頼朝の幕下に参加している。

(続く)




源頼政 (人物叢書)

源頼政 (人物叢書)

  • 作者: 多賀 宗隼
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 1990/01
  • メディア: 単行本



nice!(32)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 32

コメント 4

SilverMac

悲劇の武将ですね。
by SilverMac (2009-06-22 09:09) 

しか

私も久しぶりに宇治へといってこようかと思います。
平等院も素敵ですよねー。
by しか (2009-06-22 20:06) 

ばん

鳳凰堂は一回だけ行きましたがこんなに色々あったのですね。
by ばん (2009-06-23 01:01) 

過去最高記録更新中!何もしないでなぜ儲かる!?秘密の方法を限定公開中。今すぐクリック!

ちょっとしたことに気づくだけで、あなたの月収は最大2倍になります。公開期間を限定しておりますので、今すぐチェックしてください
by 過去最高記録更新中!何もしないでなぜ儲かる!?秘密の方法を限定公開中。今すぐクリック! (2010-04-18 10:46) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。