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ウェルかめ③ 日和佐城跡 [城]

JR牟岐線の日和佐駅東前方に、城山と呼ばれている標高65mの小丘がある。この城山の山頂が日和佐城跡である。
この城山は、東は絶壁の海を負い、北方の麓は、日和佐川が流れ、西は入江に接した三方を海川の水面に囲まれた要害の地である。
元亀・天正(1500)年代の初め、日和佐の豪族日和佐肥前守が、阿波の南部進入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いた。

天正3年(1575)秋、阿波の海部郡に侵入し、宍喰、海部の二城を陥した長宗我部元親は、海部城に弟の香宗我部親秦を置いて阿波攻略の拠点として残る諸地域への進攻を展開した。日和佐城主日和佐肥前守が、長宗我部勢の主将香宗我部親秦の起請文を受けてその軍門に降ったのは、天正5年(1577)11月17日である。跡を継いで城主となった肥前守の弟日和佐権正は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐に敗れて土佐に退去した長宗我部元親に請われて、慶長元年(1596)に土佐赤岡の地に移住し、名を浜五郎兵衛と改めた。

関ヶ原合戦の後、阿波へ入国した蜂須賀蓮庵(家政)もまた、浜家の阿波帰住を懇望し、浜五郎兵衛は、日和佐に帰った。奥河内の込潟に屋敷を持ち、高五十石(後に八十石)を知行する士分に取り立てられ、浜五郎兵衛は寛永16年(1639)に死亡した。


日和佐城.jpg

現在の日和佐城である。

現在城跡とされる城山には、模擬天守が構築されており、日和佐勤労者野外活動施設として利用されていた。もちろん、当時の建物を再現したものではない。石垣も当時の遺構を利用したものではなく、建造当時の遺構と言えるものはほとんど見当たらない。


日和佐城2.jpg

まさしく、模擬天守である。

時は紫陽花の季節である。天守閣の辺にも紫陽花の花が咲いていた。

紫陽花.jpg
紫陽花

駐車場に聞いたことのない銅像が寂しく立っていた。

徳島岩吉.jpg

徳島岩吉翁とある。

徳島岩吉は、現在の「トクスイコーポーレーション」の創業者である。「トクスイコーポーレーション」、その前身の徳島水産もよく知らない。地元では有名人なのだろう。


タグ: 紫陽花 銅像
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コメント 3

SilverMac

四国には長宗我部の四国平定の足跡が残っていますね。
by SilverMac (2009-07-01 08:20) 

ばん

城は新しくなっても人情と名残はあります。
by ばん (2009-07-01 23:57) 

春分

私なども、城跡は城跡として置いてあっていいのかと思います。
by 春分 (2009-07-05 07:34) 

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