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佐川地質館と佐川町立青山文庫、ついでに佐川城址とさくらまつり [その他観光・レジャー]

佐川地質館は、いの町紙の博物館からさらに車で西に20分程走ったところにある。

県外の人間はなかなか行かないところだろう。


佐川地質館.jpg
佐川地質館2.jpg
佐川地質館

外観はもう1つだが、中は大したものだ。

古生代から中生代の化石の宝庫・佐川盆地をはじめ、県内の地形・地質。「地質・化石のメッカ」佐川ならではのミュージアムである。県内や国内外の化石コレクション、動く恐竜・ティラノザウルス、動く大陸装置などを展示している。

そして、もう1つの目的地は、佐川町立青山文庫である。佐川町出身で明治政府の宮内大臣、田中光顕の寄贈品や蔵書を中心に収蔵する博物館である。「青山」とは田中光顕の雅号であり、土佐・薩摩・長州・水戸など諸藩志士や明治天皇、公卿の資料も数多く収蔵されている。


青山文庫.jpg
佐川町立青山文庫

近くに牧野公園があり、ちょうどさくらまつりをやっていた。ガードマンが交通整理をやっていて、牧野公園の駐車場に入れる。

青山文庫を見た後、さくらまつりの方に歩いていく。途中青源寺という由緒ありそうなお寺があり、立派な山門があった。

青源寺山門.jpg
青源寺山門

青源寺は、山号 龍渕山、臨済宗妙心寺派で本尊は釈迦如来である。
開祖の丈林和尚は、遠州掛川長蓮寺より慶長8年(1603)藩主山内一豊に招かれて来高。佐川領主深尾家の菩提寺として青源寺を建立した。丈林和尚は有名な甲斐恵林寺の快川和尚の弟子筋に当たる人である。

丈林和尚はこの奥土居の閑寂を愛し、この地に寺を建立したもの。
一豊より寺領100石の寄進があったが、このうち50石を辞退し、深尾家から菩提寺として22石を給され、72石を拝領した。
青源寺の見事な石垣は元和2年(1616)幕府の一国一城制により廃された佐川城の石垣をもって築かれている。
この石段の元に芭蕉の句碑があり「花の陰うたひに似たる旅寝かな」と読まれる。もと霧生関にあったものでいつの頃かこの地に移築される。芭蕉の大和国草尾村の作の句である。

青源寺は歴代の僧に傑僧、学僧が多く、中でも治水工事を行った3世大牛和尚、書画彫刻に非凡な腕を持ち、後水尾天皇より宸翰を賜った4世南海和尚、享保13年(1728)、青源寺は火災で焼失、これを再興した8世独湛和尚、松雲と号して詩文に秀で、書もよくした11世養宗和尚、明治初年の廃仏毀釈に対し、焼身をかけて寺門を守った13世愚仲和尚などは特に有名である。
その他境内には名鶯の碑(磐井谷深尾邸にあったもの)、永頼の塔(3.7m)これも深尾邸にあったものを移築。
明治維新により明治2年、深尾家は清水谷の土居邸宅を壊し、高知に移転を命ぜられた。家臣一同と離別することになり、この石灯は旧臣87名が名を刻した惜別の碑である。


青源寺を横目に行くと、佐川城址という案内板があった。

牧野公園のある山は、古城山と呼ばれており、古くは長宗我部元親の家臣で佐川を治めていた久武親信の居城があった所である。
久武親信は長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から元親に重用され、高岡郡佐川城を与えられた。
長宗我部家が滅亡と共に、山内一豊が土佐に入国すると、此処は深尾家の領地となり幕末にいたるが、城は元和2年(1616)に姿を消した。

石垣は所々に見られるが、当時のものかは分からない。
すでに、夕方で、夜桜見物の客たちが集まり始めている。

佐川城跡.jpg
さくらまつり.jpg
さくらまつり2.jpg

私も家路を急ぐことにした。


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Silvermac

化石掘りに行ったことがあります。(^^)/~~~
by Silvermac (2011-05-21 21:58) 

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