頼久寺 [神社仏閣]
備中松山城の城下町、武家屋敷が立ち並ぶ辺りに、頼久寺はある。
頼久寺は、臨済宗永源寺派の寺院で、山号は天柱山。本尊は聖観世音菩薩である。
起源については不詳であるが、1339年(暦応2年)、足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされた。中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。
永正年間(1504年 - 1521年)、備中松山城城主、上野頼久が大檀越となり寺景を一新した。1521年(大永元年)、頼久が逝去したので、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称する。
頼久寺正面
山門
本堂
頼久寺庭園は、国の名勝に指定されている。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍についた功により小堀正次が備中国1万4千石に封じられ、1604年(慶長9年)に逝去したため子の政一(小堀遠州)が遺領を継いだ。この頃の備中松山城は備中兵乱後で荒廃していたため、政一は頼久寺を仮の居館とし、1619年(元和5年)の移封までここで過ごした。
境内の庭園はこの頃の政一(遠州)により作庭されたもので、蓬莱式山水庭園である。愛宕山を借景し白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。
枯山水の庭の反対側には、池がある。規模は小さいが池泉回遊式庭園である。
池の中央に配された石の上に小さなお地蔵さんが置かれている。
頼久寺は、臨済宗永源寺派の寺院で、山号は天柱山。本尊は聖観世音菩薩である。
起源については不詳であるが、1339年(暦応2年)、足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされた。中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。
永正年間(1504年 - 1521年)、備中松山城城主、上野頼久が大檀越となり寺景を一新した。1521年(大永元年)、頼久が逝去したので、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称する。
頼久寺正面
山門
本堂
頼久寺庭園は、国の名勝に指定されている。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍についた功により小堀正次が備中国1万4千石に封じられ、1604年(慶長9年)に逝去したため子の政一(小堀遠州)が遺領を継いだ。この頃の備中松山城は備中兵乱後で荒廃していたため、政一は頼久寺を仮の居館とし、1619年(元和5年)の移封までここで過ごした。
境内の庭園はこの頃の政一(遠州)により作庭されたもので、蓬莱式山水庭園である。愛宕山を借景し白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。
枯山水の庭の反対側には、池がある。規模は小さいが池泉回遊式庭園である。
池の中央に配された石の上に小さなお地蔵さんが置かれている。
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