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長岡京 勝竜寺城公園① [城]

JR京都線長岡京駅で降りて、10分歩くと、堀があって、櫓が見えてくる。

周りは住宅地で、そのお城のある空間だけ、タイムスリップしたみたいだ。

長岡京駅から勝竜寺城公園までの道をガラシャ通りというのだが、ただただ普通の車道でガラシャの因むものもないし、昔の風情のある道でもない。

勝龍寺城.jpg
勝龍寺城2.jpg

堀の中に、蓮の花を植えたり、アオサギの小屋を作って、目を楽しませてくれる。

アオサギ.jpg

勝竜寺城は、歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ城である。

細川藤孝が天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。

江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成したが、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。

現在本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。
公園の入口にさしかかる。

門.jpg

本丸の跡であるが、今はいろいろな装飾が施されている。

石碑.jpg
ポール.jpg
城門.jpg

門を入ると立派な建物がある。資料館とも何とも書いていないので、敬遠して、公園の方に回る。

忠興と玉の銅像が建っている。

忠興玉像.jpg

(続く)


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