長岡天満宮 [神社仏閣]
長岡京に来たついでに、長岡天満宮にお参りすることにした。
勝竜寺城公園から長岡天満宮まで歩いた。結構な距離だ。
神社の前の天下一品でラーメンの大盛を食べる。他に食事をするところがないのか、店に入るために路上駐車している車が多かった。駐車場が少し離れたところにあるのだが、そこに入れている車は少なかった。
正面の大鳥居をくぐると、両側が池になっている。これは、八条ケ池といって、 寛永15年(1638)に当時の領主・八条宮智仁親王が造るように命じた、灌漑用の溜め池である。 外周は約1㎞、貯水量 は約35000トンあるという。
池の左手奥に社殿がある。
本殿
現在社殿が建立している周辺は平安時代、菅原道真の所領であり、生前に在原業平らと共に、しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだ縁深いところである。道真が大宰府へ左遷された時、長岡に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。左遷の際道真に付き従ったのが、菅原氏の一族とされる中小路宗則で、宗則は高槻まで同船し、帰り際、道真から道真自作の像と念持仏を託され持ち帰り、道真の死後に、公自作の木像をお祀りしたのが当天満宮の創立とされている。 また、道真の大宰府左遷に付き従った中小路氏は、大宰府で過ごし、道真の死後に、東小路祐房と共に、道真自作の像と念持仏を持ち帰り、祠を建てて安置したことが始まりとも言われる。
社地は元10万余坪に亘って居たが、明治維新の変革に際し上地のため、現今は2万余坪を有している。現在の御本殿は昭和16年に京都の平安神宮の御社殿を拝領移築したもので、正面朱塗りの拝殿はの「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、既存の拝殿を増改築したものである。
本殿から池に向かって、下ってくると、紅葉庭園「錦景苑」がある。
平成19年に境内に完成した紅葉庭園である。四阿(あずまや)に腰を庭園下ろし滝の方を眺めると覆うように大小の紅葉が錦を織り成し、 迂回して坂を登り絵馬殿の窓から東を望めば、眼下には大銀杏の黄と楓の紅が競っているということだが、残念ながら、今は季節外れである。紅葉の時期に、改めて訪れよう。
八条が池には、檜で作られた水上橋があり、そこからは池を中心として境内を一望できる。
今日はこの辺で。
勝竜寺城公園から長岡天満宮まで歩いた。結構な距離だ。
神社の前の天下一品でラーメンの大盛を食べる。他に食事をするところがないのか、店に入るために路上駐車している車が多かった。駐車場が少し離れたところにあるのだが、そこに入れている車は少なかった。
正面の大鳥居をくぐると、両側が池になっている。これは、八条ケ池といって、 寛永15年(1638)に当時の領主・八条宮智仁親王が造るように命じた、灌漑用の溜め池である。 外周は約1㎞、貯水量 は約35000トンあるという。
池の左手奥に社殿がある。
本殿
現在社殿が建立している周辺は平安時代、菅原道真の所領であり、生前に在原業平らと共に、しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだ縁深いところである。道真が大宰府へ左遷された時、長岡に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。左遷の際道真に付き従ったのが、菅原氏の一族とされる中小路宗則で、宗則は高槻まで同船し、帰り際、道真から道真自作の像と念持仏を託され持ち帰り、道真の死後に、公自作の木像をお祀りしたのが当天満宮の創立とされている。 また、道真の大宰府左遷に付き従った中小路氏は、大宰府で過ごし、道真の死後に、東小路祐房と共に、道真自作の像と念持仏を持ち帰り、祠を建てて安置したことが始まりとも言われる。
社地は元10万余坪に亘って居たが、明治維新の変革に際し上地のため、現今は2万余坪を有している。現在の御本殿は昭和16年に京都の平安神宮の御社殿を拝領移築したもので、正面朱塗りの拝殿はの「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、既存の拝殿を増改築したものである。
本殿から池に向かって、下ってくると、紅葉庭園「錦景苑」がある。
平成19年に境内に完成した紅葉庭園である。四阿(あずまや)に腰を庭園下ろし滝の方を眺めると覆うように大小の紅葉が錦を織り成し、 迂回して坂を登り絵馬殿の窓から東を望めば、眼下には大銀杏の黄と楓の紅が競っているということだが、残念ながら、今は季節外れである。紅葉の時期に、改めて訪れよう。
八条が池には、檜で作られた水上橋があり、そこからは池を中心として境内を一望できる。
今日はこの辺で。
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