津和野と津和野城跡④ 歴史と本丸 [城]
津和野城の歴史は、鎌倉時代に始まる。
弘安5年(1283年)吉見頼行が沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任、永仁3年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324年)完成した。以後、14代にわたり吉見氏が居城した。
吉見氏は戦国時代には当初、大内氏に属した。11代当主正頼は天文23年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢と100日以上に及ぶ籠城戦の末、陶軍を撃退した。この際に毛利軍の援護を受け、これ以後、毛利氏に属した。14代当主広長は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利配下として大坂城を守った。しかし、毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏は防長2国に押し込められた。吉見氏も津和野を退去し、毛利氏とともに萩に移住した。
代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。この時、二の丸に天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)かの千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。
元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。
貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年、山上の城は解体された。
出丸跡から山道を下り、再び上り坂になる。この辺りがきつい。
そして、三の丸、二の丸、本丸の石垣が見えてくる。
東門跡
馬立・台所跡の石垣
ここは三の丸に当たる所。階段を登り、左手が馬立で、乗馬をつなぎとめておく所である。
右は三段櫓の最上部の建物につながる。馬立の奥には、台所があり、さらに奥には、海老櫓という建物があり、搦め手に直面する望楼であった。
二の丸に天守台がある。
天守台
太鼓丸
三十間台こと、本丸跡である。
本丸からの眺望は最高だ。この眺めだけでも、ここまで登った甲斐がある。
弘安5年(1283年)吉見頼行が沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任、永仁3年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324年)完成した。以後、14代にわたり吉見氏が居城した。
吉見氏は戦国時代には当初、大内氏に属した。11代当主正頼は天文23年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢と100日以上に及ぶ籠城戦の末、陶軍を撃退した。この際に毛利軍の援護を受け、これ以後、毛利氏に属した。14代当主広長は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利配下として大坂城を守った。しかし、毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏は防長2国に押し込められた。吉見氏も津和野を退去し、毛利氏とともに萩に移住した。
代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。この時、二の丸に天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)かの千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。
元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。
貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年、山上の城は解体された。
出丸跡から山道を下り、再び上り坂になる。この辺りがきつい。
そして、三の丸、二の丸、本丸の石垣が見えてくる。
東門跡
馬立・台所跡の石垣
ここは三の丸に当たる所。階段を登り、左手が馬立で、乗馬をつなぎとめておく所である。
右は三段櫓の最上部の建物につながる。馬立の奥には、台所があり、さらに奥には、海老櫓という建物があり、搦め手に直面する望楼であった。
二の丸に天守台がある。
天守台
太鼓丸
三十間台こと、本丸跡である。
本丸からの眺望は最高だ。この眺めだけでも、ここまで登った甲斐がある。
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