北陸の旅③ 永平寺 [神社仏閣]
今回北陸に行くに際して、城めぐりとは別に楽しみにしていたのが、この永平寺だ。
それは二つの理由からだ。20年以上前に社内旅行で福井に来る機会はあったのだが、当時のトップが永平寺は何度も行ったので、平泉寺に行こうと言いだした。平泉寺は、司馬遼太郎の「街道をゆく」に出てくる。でも、平泉寺は当時の私には何の興味もないお寺だった。むしろ、有名な永平寺に行けないのを残念に思った。
もう1つは、最近立松和平著の「道元禅師」を読んで、縁の地に行ってみたいと思ったことだ。
とにかく来て観て驚いたのは、その大きさである。
通用門
通用門をくぐると、近代的な吉祥閣という建物に入り、靴を脱いで、後は建物の中を移動することになる。廊下や階段を抜けて、七堂伽藍のあるところに至る。山門は下の方に見える。
山門
山門は「三門」とも書かれる。総欅造りの唐風の楼門で間口9間、奥行き5間の二重層からなる。永平寺伽藍の最古の建物で寛延2年(1749)8月、永平寺42世円月江寂禅師によって再建されたものである。
下層には四天王を祀り、上階には五百羅漢を安置する。昭和55年に福井県の文化財に指定された。
山門から見て、正面に仏殿がある。
仏殿
仏殿は釈迦牟尼仏を祀る堂で別名「覚王宝殿」あるいは「三世如来殿」とも呼ばれる。永平寺の仏殿は明治35年(1902)、高祖大師650回忌を記念して改築された総欅造りの中国宋代の形式に従った石畳敷きのものである。
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれる。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親である。
幼時に父母を亡くした道元は、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
建保5年(1217年)、道元は比叡山を下り、建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。しかし、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考え、師の明全ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
寛元元年(1243年)、旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めた。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
大すりこぎ棒
庫院前に懸けられている「擂粉木」は、明治35年(1902)仏殿建立に使用された地突き棒を丸めてスリコギに仕立てたものです。今日では永平寺のスリコギとして有名である。
廻廊
仏殿より東側の廻廊を昇ると法堂に至る。永平寺の伽藍で一番高いところにある。一般の寺院でいえば本堂に当たる。天保14年(1843)永平寺57世載庵禹隣禅師代に再建されたものである。
法堂
法堂は、住職が須弥壇上に登って修行僧に説法をする場所である。法堂眉間に有栖川宮幟仁親王筆による「法王法」という額が掲げられている。これは仏の無言の説法を文殊が証明白追した時の語、「諦観法王法、法王法如是」によるもの。よく分からないが。
法堂から、今度は山門を通って、出口に向かう。
極彩色の四天王が出迎えてくれる。
境内には、その他にも伽藍が配置されている。
納経塔
帰りも長い廻廊を通って、下界に戻る。
(続く)
それは二つの理由からだ。20年以上前に社内旅行で福井に来る機会はあったのだが、当時のトップが永平寺は何度も行ったので、平泉寺に行こうと言いだした。平泉寺は、司馬遼太郎の「街道をゆく」に出てくる。でも、平泉寺は当時の私には何の興味もないお寺だった。むしろ、有名な永平寺に行けないのを残念に思った。
もう1つは、最近立松和平著の「道元禅師」を読んで、縁の地に行ってみたいと思ったことだ。
とにかく来て観て驚いたのは、その大きさである。
通用門
通用門をくぐると、近代的な吉祥閣という建物に入り、靴を脱いで、後は建物の中を移動することになる。廊下や階段を抜けて、七堂伽藍のあるところに至る。山門は下の方に見える。
山門
山門は「三門」とも書かれる。総欅造りの唐風の楼門で間口9間、奥行き5間の二重層からなる。永平寺伽藍の最古の建物で寛延2年(1749)8月、永平寺42世円月江寂禅師によって再建されたものである。
下層には四天王を祀り、上階には五百羅漢を安置する。昭和55年に福井県の文化財に指定された。
山門から見て、正面に仏殿がある。
仏殿
仏殿は釈迦牟尼仏を祀る堂で別名「覚王宝殿」あるいは「三世如来殿」とも呼ばれる。永平寺の仏殿は明治35年(1902)、高祖大師650回忌を記念して改築された総欅造りの中国宋代の形式に従った石畳敷きのものである。
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれる。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親である。
幼時に父母を亡くした道元は、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
建保5年(1217年)、道元は比叡山を下り、建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。しかし、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考え、師の明全ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
寛元元年(1243年)、旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めた。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
大すりこぎ棒
庫院前に懸けられている「擂粉木」は、明治35年(1902)仏殿建立に使用された地突き棒を丸めてスリコギに仕立てたものです。今日では永平寺のスリコギとして有名である。
廻廊
仏殿より東側の廻廊を昇ると法堂に至る。永平寺の伽藍で一番高いところにある。一般の寺院でいえば本堂に当たる。天保14年(1843)永平寺57世載庵禹隣禅師代に再建されたものである。
法堂
法堂は、住職が須弥壇上に登って修行僧に説法をする場所である。法堂眉間に有栖川宮幟仁親王筆による「法王法」という額が掲げられている。これは仏の無言の説法を文殊が証明白追した時の語、「諦観法王法、法王法如是」によるもの。よく分からないが。
法堂から、今度は山門を通って、出口に向かう。
極彩色の四天王が出迎えてくれる。
境内には、その他にも伽藍が配置されている。
納経塔
帰りも長い廻廊を通って、下界に戻る。
(続く)
〈マンガ〉正法眼蔵入門―道元の「仏法」に迫る (サンマーク文庫)
- 作者: 白取 春彦
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 1998/04
- メディア: 文庫
道元入門-生の充実を求めるために (講談社現代新書 217)
- 作者: 秋月 龍ミン
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1970/02/16
- メディア: 新書
ビギナーズ 日本の思想 道元「典座教訓」 禅の食事と心 (角川ソフィア文庫)
- 作者: 道元
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2009/07/25
- メディア: 文庫
タグ:お寺
大寺院ですね。
by Silvermac (2011-11-06 06:01)
おはようございます^^
現在の我が家は曹洞宗なので、もう10年以上前息子と一緒にここには来た事があります。
立派なお寺ですよね。お若い方が修行していらっしゃって、ちょっと感動した思い出が。
by mimimomo (2011-11-06 08:24)
4年ほど前に行って来たので懐かしいです。
by 旅爺さん (2011-11-06 08:46)