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北陸の旅④ 高岡古城公園 [城]

9月17日である。前日は白山市のビジネスホテルに泊る。狭いし、朝食も今一であった。

生憎と天気は芳しくない。家内を能美市の辰口丘陵公園テニスセンターに連れていく。この天気では、試合があるかどうかは不明だ。家内のテニスの試合がある日は、よく雨が降る。雨女だろう。

私は、まず富山県高岡市にある高岡城跡に向かう。初めて富山県に入る。いや、列車では通過したことはあるかもしれない。

高岡城跡は、高岡古城公園として整備されている。車で公園の廻りを一周して、やっと駐車場を見つける。駐車場のおじさんに聞くと、公園を利用する人であれば、駐車料金は無料だそうだ。

高岡古城公園.jpg

公園は、随分と広大だ。

まずは、公園の反対側にある、高岡市立博物館に行く。日本100名城のスタンプをゲットするためだ。

博物館.jpg
高岡市立博物館

博物館の入口が二つあるので、片方に入って、スタンプはどこにあるか聞いた。係りの女性がわざわざ案内してくれた。スタンプはもう一方の入口の近くにあった。

博物館には、歴史的資料だけでなく、産業的資料もあり、高岡市の産業もよく理解できた。

公園の中を見て回る前に、公園のすぐ近くにある高岡大仏を見ることにした。車で周辺をうろうろしている時に見つけたのだ。

高岡大仏.jpg
高岡大仏2.jpg

高岡大仏は、奈良の大仏、鎌倉大仏と共に日本三大仏の一つとされる。

延享2年(1745)、坂下町の浄土宗極楽寺第15世等誉上人が大仏建立を誓い、弟子の良観を勧進職として
高さ3丈2尺(約10m)の木造金色の仏像を建立した。しかし、文政4年(1821)の大火によって焼失した。

極楽寺第26世譲誉上人は再興を祈念して町民に訴え、天保12年(1841)に1丈6尺(約5m)の木像を再興した。それから60年後、明治33年(1900)の大火によって再び焼失した。

定塚町の松木宗左衛門は、今度は再び焼けることのない鋳銅仏にしたいと発願し、市内だけでなく広く各地に勧進した。景気の不振や宗左衛門の病死などもあって事業はなかなか進まなかったが、数多くの人々の寄進と労力奉仕によって昭和8年(1933)についに完成した。

また昭和33年(1958)に円光背が取り付けられた。昭和53~56年(1978~1981)と平成19年(2007)に大規模な修理が行われ、現在に至っている。

1933年、歌人の与謝野晶子が高岡を訪れた際に、高岡大仏を「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わり、端正な顔立ちの大仏と言われる。

高岡大仏を見た後、再び公園に戻る。

堀.jpg
内堀

内堀を渡り、真っすぐ行くと射水神社、右手に相撲場があり、その前に相撲の彫刻がある。

国技.jpg

左に曲がると、本丸広場に至る。

広場.jpg

本丸広場は彫刻広場だ。数々の彫刻が、目を楽しませてくれる。

時計.jpg
夢.jpg
肩こり.jpg
行路.jpg
レダ.jpg
ハイジ.jpg
競技前.jpg

城跡らしきものがあるかと言えば、石垣の石が何気なく置いてあった。

石垣の石.jpg
高岡城の石垣の石


さて、高岡城の歴史についてである。

加賀前田家二代の利長公は、天正13年(1585)から13年間、二上山にあった守山城の城主であった。慶長3年(1598)に利家公の後を継ぎ当主となり、同10年(1605)には隠居して富山城に移った。同14年(1609)3月の大火により城を焼失し、当時関野と呼ばれていた地に新しく城をつくることにした。高岡城は、キリシタン大名であり、築城の名手として有名な高山右近が縄張したと伝えられる。 利長公は、「詩経」の一節からこの地を「高岡」と名付け、同年9月に高岡城に入城した。その5年後、利長公は死去し、元和元年(1615)、城は一国一城令により廃城となったが、三代利常公は、利長公の意をくみ、城郭の基本構造を残した。また、まちにおいては鋳造産業の奨励、布・魚・塩などの物資の集散地とし、城下町から商工業のまちへと転換を図った。当時城跡は、町民から「古御城(ふるおしろ)」と呼ばれた。

本丸公園の桜並木を通り抜けると、前田利長公の銅像がある。

並木道.jpg
前田利長公.jpg

(続く)


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コメント 1

Silvermac

銅像の多い公園ですね。
by Silvermac (2011-11-14 05:30) 

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