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北陸の旅⑦ 金沢城・続き [城]

二の丸広場に立つ。随分広い。

二の丸案内所.jpg

二の丸2.jpg

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓と一続きになっている。

金沢城の復元整備事業の第1期工事として、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて、平成13年7月に完成した。3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいる。これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋は武器等の倉庫だった。

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内部に入ることが出来る。

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櫓内から見た三の丸

金沢城のある、この地は元々加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊」であった(天文15年、1546年建立)。天正8年(1580年)織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。天正11年(1583年)盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称した。

天正15年(1587年)バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った。再び金沢城に改称されたのはこの頃といわれている。
文禄元年(1592年)利家の子、前田利長が再び改造を行った。
慶長7年(1602年)天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した。

明治以降は、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995年)まで置かれていた。


二の丸から極楽橋を渡る。

極楽橋.jpg
極楽橋

昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。擬宝珠のついた木製の素朴な橋で、この度、修復された。

極楽橋を渡ると、三十間長屋がある。

三十間長屋.jpg
三十間長屋

本丸附段にある2層2階の多聞櫓で、重要文化財に指定されている。安政5年(1858)の築で、現在の長さは26間半。

ここから、ほぼ金沢城公園を一周する。石垣を見ながらである。

石垣1.jpg

新丸広場.jpg
新丸広場

内堀.jpg

内堀沿いに歩いて、三の丸広場まで戻ってくる。

菱櫓.jpg
菱櫓2.jpg
菱櫓

五十間長屋.jpg
五十間長屋

三の丸には河北門がある。

河北門.jpg
河北門

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門である。「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれている。金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、三御門の中で最初に安永元年(1772)に再建された。

次は、いよいよ兼六園である。

(続き)







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コメント 2

Silvermac

大きな城ですね。三十軒長屋を見るとこの城の規模が想像されますね。
by Silvermac (2011-12-25 16:23) 

イチロー

この一年ありがとうございました・・
来年も宜しくお願い致します、良いお年をお迎えください。

by イチロー (2011-12-31 15:34) 

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