海の史劇 [吉村昭]
日露戦争の日本海海戦を描いた作品と言えば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」であるが、この作品は日本海海戦とそこに至るまでのバルチック艦隊の航海を主にロシア側から描いている。
吉村昭・遺作「死顔」 [吉村昭]
雑誌「新潮」の10月号に吉村昭さんの遺作「死顔」が掲載されている。病床で書いたのかと思うと感慨深い。
次のような内容だ。危篤の次兄を見舞いに行き、2日後に次兄の死を知らされる。通夜、葬儀と出席する中で、すでに亡くなった家族の死、やがて自分の死へと想いが至る。
自分の死を予感した内容となっている。
その中で、自分の遺言とも言えるべき内容のものがある。
1つは、延命治療はしてくれるなということ。
幕末の蘭方医佐藤泰然の最期を引合いに出している。
佐藤泰然は、自ら死期が近いのを知って、高額な医薬品の服用を拒み、食物も断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬように配慮したのだ。
もう1つ、死顔を他人に見せてくれるなということ。醜い姿を他人の目に晒されたくないのだ。自らも次兄の死顔を見ようとしなかった。
そして、実際に夫人の津村節子さんにそのような遺言をされたようだ。
同時期に発売された「文藝春秋」10月号に、津村節子さんのお別れ会挨拶・吉村昭氏の最期が載っている。以前紹介した新聞記事の内容の通りだが、吉村昭さんの延命治療を拒否した死に方に清々しさを感じる。
ご冥福を祈りたい。
大黒屋光太夫 [吉村昭]
作家・吉村昭さん逝く [吉村昭]
7月31日、作家の吉村昭さんが、79歳でなくなった。
訃報は、8月4日の日経新聞で黒井千次氏の「吉村昭さんを悼む」という記事を読んで初めて知った(当然それまでに訃報の記事はあったのだろうが、読み飛ばしてしまったようだ)。
=日経新聞文化欄の記事=
間宮林蔵 [吉村昭]
江戸時代後期、樺太探検をした人物。中国大陸と樺太の間に海峡があることを発見し、その海峡に間宮海峡と自分の名前まで残している。世界的にも有名な探険家だ。
吉村昭は、この時代を舞台にした小説を数多く残している。記録文学的手法で、取材および資料に基づき、客観的に微細に克明に描くことにより、間宮の実像に迫っていく。
間宮は、貧しい農家の生まれであるが、役人村上島之允の下僕になったことから、探検家への道が開ける。
前半は、探検家としての間宮を描く。彼が、樺太への探検をするのは、20台だ。幕府の命令によるものだが、自ら志願したこともある。その探検はまさしく過酷なもので、何度も失敗しては、再チャレンジしている。飢えと寒さに苦しめられて、よく生きて帰れたと感心する。目標を持ったら、途中で困難に遭遇しても、最後まで諦めず、やり抜くという強い意志を持った人物だ。現在の我々にも参考になる。
吉村昭は、自然の厳しさを淡々と描いており、よりリアリティを増している。冬の真っ白ら樺太の景色が目に浮かぶようで、また、寒さが、身にしみるように感じられる。
後半は、役人としての人生だ。いろいろな幕末の事件と遭遇する。中でも、シーボルト事件とは、深い関わりを持つ。彼が、シーボルトからの贈り物を受け取らず、上司にそのまま渡したことが、シーボルトを取巻く人々に疑惑を抱かせたきっかけをつくったとも言える。間宮は、非常に用心深い人物でもあり、正義感が強く、自分がこう思ったら、後には引かないというタイプだ。
また、幕府の隠密として、全国を旅し、浜田藩の密輸も摘発することになる。
ただ、最後は寂しい最期だ。一度の妻帯もすることなく、子供もなく、一人寂しく、死んでいく。
後日談として、シーボルトのその後が書いてあるが、皮肉なことに、間宮を世界的探検家として有名ならしめたのは、シーボルトの著書「ニッポン」ということになっている。シーボルトがいなければ、樺太が半島でなく、島だと発見したのは、間宮ではなく、別のロシア人ということになっていたはずだ。