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津和野と津和野城跡③ リフト~堀切~出丸 [城]

雨が止み、晴間が見えたことから、津和野城跡に再挑戦するため、リフト乗場に向かう。

雨が止んでも、リフトに乗る人は少ないようだ。たまたま、私より前に、親子連れがおり、係員に一緒かと聞かれた。前後を見回しても、私とその親子連れ以外はいないようだ。

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リフトを降りてからもしばらくは歩く。登りはそうないが、アップダウンはあり、下った分は登る必要がある。汗をかくと、蚊が寄ってきて、耳のまわりで翅音を立てるのが煩い。

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先に行く親子連れについて、山道を歩く。親子連れと言っても、老夫婦と成人の男性だ。年齢はよく分からない。

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津和野と津和野城跡② 津和野の町並み [城]

山間の小さな盆地に広がる津和野の町並みは、小京都の代表格として有名である。

毎年7月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

町の中心地、殿町通りの起点に当たる、川沿いの公園に、鷺舞の銅像が立っている。

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近くに鯉の像もある。

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タグ:銅像
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津和野と津和野城跡① 嘉楽園と森鴎外記念館 [城]

8月18日。夏休みを利用して、山陰を旅行した後、広島県の実家に帰省する。

私と家内の実家に一泊ずつした次の日、山口県周南市にテニスの試合がある家内を送っていく。私はと言えば、試合観戦を辞して、日本100名城の旅に。

次の目的地は、島根県の津和野であるが、周南市からは2時間くらいかかる。そして、あいにくの雨模様である。途中小雨になっていたが、津和野に着いた時は、すっかり本降りになっていた。

まずは、目的地の津和野城跡に登るリフト乗り場に行ってみる。

リフト乗場に行く途中に、津和野高校のグランドがあり、その前の芝生の広場があり、津和野城跡(嘉楽園)という立札が立っている。

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誰だか知らないが、銅像もある。

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どうやら最後の藩主らしい。

嘉楽園は、津和野藩主、亀井氏が造った藩邸跡の庭園である。藩主が祭礼などを見学した物見櫓なども復元されている。

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白い建物が、物見櫓である。

馬場先櫓.jpg
馬場先櫓


リフト乗場に着く。あいにくの雨であるが、リフトは動いているが、係りの人から、山頂は靄がかかって、見晴らしが悪く、止めた方がいいと忠告されて断念。日本100名城のスタンプだけはゲットする。山城への登頂は、天気の回復を待ってからにする。

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月山富田城跡 [城]

8月16日の記事である。米子に一泊した翌日。100名城の1つ月山富田城を目指す。島根県は安来市にある城跡だ。

カーナビ頼りに、出掛けたが、道は良く分からない。月山の麓の歴史民族資料館で、道を教えてもらう。車の道も狭いのだが、停める場所も道の途中の少し広くなったところだと言う。そこから、歩いて、30分以上登る。

教えてもらったにもかかわらず、曲がるところを間違えて、太鼓壇と呼ばれるところに出る。

でも、運のよいことに、そこには、嘗てから見たかった山中鹿之助の銅像があった。周りは桜の木は生えているが、山の中のわずかに平坦になった草地で、有名な銅像が立っているのが違和感さえあった。

車で通るのが憚られる場所で、草の中に埋まった切り株に気づかなくて、車体の底をガリッと傷つけてしまった。そういう場所である。

山中鹿之助.jpg

銅像は、両手を合わせて、一心不乱に何かを祈っている姿だ。

山中鹿之助2.jpg

主家である尼子氏の御家再興のために「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈っているのだろう。

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鳥取城跡② 鳥取城の歴史 [城]

仁風閣を見た後、鳥取城跡に向かう。

まずは、城門である。

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唯一の建造物であるが、これは復元された城門である。

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残されたのは、石垣ばかりであるが、いずれも立派な石垣だ。

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鳥取城跡① 吉川経家と仁風閣 [城]

夏休みを利用して、日本100名城巡りをする。

実家に帰るついでに、鳥取に立ち寄る。かなり大廻りだ。

まずは、鳥取城跡を見学しようと、久松公園に向かう。あいにく駐車場がいっぱいでうろうろする。かなり離れたところであるが、県庁の隣の駐車場を見つけて、入れる。

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堀沿いに歩いていく。途中、大きな銅像が立っている。

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吉川経家公とある。吉川 経家は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣で、吉川経安の嫡男。石見吉川氏であり、吉川本家の庶流の生まれである。

秀吉の鳥取城攻略戦の際のお話である。

天正9年(1581年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国討伐軍が因幡国まで侵攻した。城主山名豊国は織田氏に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉・中村春続に追放されることとなった。森下・中村の両名は吉川元春に支援を求め、吉川一門の派遣を要請した。元春はこの要請を受け入れ、吉川一門で文武両道に優れた名将として、経家に鳥取城を守備するよう命令を下した。この時、経家は自らの首桶を用意したという。

天正9年(1581年)2月、経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めた。しかし、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しか無いことを知り愕然とした。羽柴秀吉の策略により、因幡国の兵糧は秀吉の密命によって潜入した若狭の商人によって全て高値で買い漁られており、鳥取城の城兵もその高値に釣られて備蓄していた兵糧米を売り払っていたのである。このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。

6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲し、攻撃を開始した。秀吉は無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗。兵糧は尽き、2ヶ月目には城内の家畜や植物も食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始める。4ヶ月の籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。

秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、信長はそれに対し、経家の自害を許可している。

10月25日、経家は自害して、その一生を終えた。

辞世の句は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」

自害後、その首は秀吉の下に届けられ、その後安土の織田信長に送られ、信長によって丁重に葬られた。




鳥取城跡に登る前に、日本100名城のスタンプをもらうため、麓にある仁風閣という洋館を見学する。

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長岡京 勝竜寺城公園② [城]

公園の周囲には、当時の塀が再現されている。

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塀2.jpg
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タグ: 公園
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長岡京 勝竜寺城公園① [城]

JR京都線長岡京駅で降りて、10分歩くと、堀があって、櫓が見えてくる。

周りは住宅地で、そのお城のある空間だけ、タイムスリップしたみたいだ。

長岡京駅から勝竜寺城公園までの道をガラシャ通りというのだが、ただただ普通の車道でガラシャの因むものもないし、昔の風情のある道でもない。

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堀の中に、蓮の花を植えたり、アオサギの小屋を作って、目を楽しませてくれる。

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勝竜寺城は、歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ城である。

細川藤孝が天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。

江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成したが、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。

現在本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。

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備中松山城再訪③ [城]

いよいよ本丸である。

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入場料を払って入る。

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備中松山城の歴史である。

仁治元年(1240年)、秋葉重信が備中有漢郷の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。城主は上野氏、庄氏、三村氏と変遷し、戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。

慶長4年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番として小堀正次・政一を置いた。

元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。

水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。

慶応4年1月18日(1868年2月11日)戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。

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天守閣の内部に入る。

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備中松山城再訪② [城]

いよいよ天守閣が近づいてきた。

足軽箱番所跡があり、それに土塀が続いている。

番所跡.jpg
足軽箱番所跡

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三の平櫓東土塀(国指定重要文化財)

四角い矢狭間と丸い筒狭間をそなえた三の平櫓東土塀である。厩曲輪の土塀の一部とともに永年の風雪に耐えて残った現存する当時の土塀である。

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三の丸である。

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