20年に一度のお祭り・三ツ山大祭 [祭り]
3月31日から4月7日にかけて、20年に一度のお祭り、三ツ山大祭が開催された。
場所は、兵庫県姫路市である。播磨国総社、射楯兵主神社の祭礼である。
姫路のお祭りと言えば、毎年秋に行われる灘のけんか祭りが有名であるが、この三ツ山大祭はもっと歴史があるお祭りだ。
起源は平安時代、藤原純友の乱・平将門の乱を鎮定するため、天慶2年(939年)に斎行された「天神(てんしん)地祇(ちぎ)祭」に由来するとされている。はじめは式年(定まった期間)ではなく、天災や特に国中安泰を願う時、不定期に執り行われていた。三ツ山大祭が式年となったのは、天文2年(1533年)播磨国守護職 赤松政村(晴政)の下知による時からで、20年に一度行うことが定められてから後も、播磨国の平安と発展を祈るお祭りとして、今日まで一度も途絶えることなく継承されてきた。
三つの山はそれぞれ二色山/五色山/小袖山と呼ばれ、二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所(くしょ)御霊(ごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えする。
お迎えした神々を本殿の神様「射楯神」・「兵主神」が、この時特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿までお出迎えし、三つの山にお迎えした神々を接遇されて、共に国の平安と発展を祈る。
出かけたのは、最終日の4月7日である。前日は春の嵐で主な行事が中止になっていた。
この日は、朝起きると、風は強いが、何とか晴れていたので、ほっとした。
姫路城の桜もあり、大変な人出であった。
(続く)
場所は、兵庫県姫路市である。播磨国総社、射楯兵主神社の祭礼である。
姫路のお祭りと言えば、毎年秋に行われる灘のけんか祭りが有名であるが、この三ツ山大祭はもっと歴史があるお祭りだ。
起源は平安時代、藤原純友の乱・平将門の乱を鎮定するため、天慶2年(939年)に斎行された「天神(てんしん)地祇(ちぎ)祭」に由来するとされている。はじめは式年(定まった期間)ではなく、天災や特に国中安泰を願う時、不定期に執り行われていた。三ツ山大祭が式年となったのは、天文2年(1533年)播磨国守護職 赤松政村(晴政)の下知による時からで、20年に一度行うことが定められてから後も、播磨国の平安と発展を祈るお祭りとして、今日まで一度も途絶えることなく継承されてきた。
三つの山はそれぞれ二色山/五色山/小袖山と呼ばれ、二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所(くしょ)御霊(ごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えする。
お迎えした神々を本殿の神様「射楯神」・「兵主神」が、この時特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿までお出迎えし、三つの山にお迎えした神々を接遇されて、共に国の平安と発展を祈る。
出かけたのは、最終日の4月7日である。前日は春の嵐で主な行事が中止になっていた。
この日は、朝起きると、風は強いが、何とか晴れていたので、ほっとした。
姫路城の桜もあり、大変な人出であった。
(続く)
祇園祭 山鉾巡行 2010③ テレビ中継 [祭り]
山鉾は次から次へとやって来る。山鉾は、西から東へ。私たちは、東から西へ移動する。
変わった鉾がやってきた。船の形をした船鉾である。
「日本書紀」の神功皇后の新羅出船に由来する。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する習慣がある。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾る。
変わった鉾がやってきた。船の形をした船鉾である。
「日本書紀」の神功皇后の新羅出船に由来する。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する習慣がある。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾る。
祇園祭 山鉾巡行 2010② 月鉾~岩戸山 [祭り]
混雑している交差点から四条通を西に移動する。やや人が少なくなり、前方が開けてくる。
向こうからやってきたのは、月鉾である。
「古事記」によれば、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだ。月読尊は夜を支配した神だが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来する。
月鉾には、お稚児さんの代わりに人形が乗っている。
月鉾に続いて、次々に山がやってくる。
向こうからやってきたのは、月鉾である。
「古事記」によれば、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだ。月読尊は夜を支配した神だが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来する。
月鉾には、お稚児さんの代わりに人形が乗っている。
月鉾に続いて、次々に山がやってくる。
祇園祭 山鉾巡行 2010① 辻回し [祭り]
祇園祭は京都の八坂神社の祭りで、京都三大祭り、日本三大祭りの一つである。その起源は、869年、貞観11年に遡る。卜部日良麿が、疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、66本の矛を立て、神輿3基を送り牛頭天王を祀り御霊会を行った。
970年(安和3年)から毎年行うようになった。 室町時代に至り、四条室町を中心とする下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。
2009年9月30日には、国連教育科学文化機関(ユネスコ)政府間委員会により、「京都祇園祭の山鉾行事」が、無形文化遺産に登録された。
祇園祭山鉾巡行が土曜日にあるので、家内と一緒に出かけることにした。行きの阪急電車は始発駅から乗ったので、座ることが出来たが、超満員電車であった。
終点の一つ手前の烏丸駅で少し降りたが、ほとんどの人は河原町駅で降りた。
四条河原町の交差点ではちょうど「辻回し」をやっているところだった。凄い日人出で写真を撮るどころか、見動きすらできない状態であった。事故が起きないよう、警察の人が大きな声で移動方向を指示していた。
少しずつ移動しては、交差点の少しでも前の方に出ようとしたが、先に占拠した人たちは頑として動こうとしない。前の方で携帯やコンデジを高く掲げて写真を撮るので、ファインダーを覗きながら撮る方法ではうまく写真が撮れない。
遠くから「辻回し」を眺める。
970年(安和3年)から毎年行うようになった。 室町時代に至り、四条室町を中心とする下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。
2009年9月30日には、国連教育科学文化機関(ユネスコ)政府間委員会により、「京都祇園祭の山鉾行事」が、無形文化遺産に登録された。
祇園祭山鉾巡行が土曜日にあるので、家内と一緒に出かけることにした。行きの阪急電車は始発駅から乗ったので、座ることが出来たが、超満員電車であった。
終点の一つ手前の烏丸駅で少し降りたが、ほとんどの人は河原町駅で降りた。
四条河原町の交差点ではちょうど「辻回し」をやっているところだった。凄い日人出で写真を撮るどころか、見動きすらできない状態であった。事故が起きないよう、警察の人が大きな声で移動方向を指示していた。
少しずつ移動しては、交差点の少しでも前の方に出ようとしたが、先に占拠した人たちは頑として動こうとしない。前の方で携帯やコンデジを高く掲げて写真を撮るので、ファインダーを覗きながら撮る方法ではうまく写真が撮れない。
遠くから「辻回し」を眺める。
阿波踊り in Tokushima 2009① ウェルかめ [祭り]
随分遅くなったが、今年の徳島の阿波踊りである。阿波踊りは、現在徳島だけでなく、全国で行われているが、何といっても本場の阿波踊りは違う。
例年8月12日から14日の4日間行われ、徳島が人人人で溢れ返る。
今年は、8月12日の初日、市役所前の有料演舞場のチケットをとった。もちろん自由席である。
市役所前がメインなのか、市長やら知事やらの挨拶で始まった。
踊りの皮切りは、有名連の阿呆連である。ほうかむりをし提灯を振り、豪快に踊り、阿波武士の心を脈々と伝え、正調武士の踊りを守り続ける連である。
例年8月12日から14日の4日間行われ、徳島が人人人で溢れ返る。
今年は、8月12日の初日、市役所前の有料演舞場のチケットをとった。もちろん自由席である。
市役所前がメインなのか、市長やら知事やらの挨拶で始まった。
踊りの皮切りは、有名連の阿呆連である。ほうかむりをし提灯を振り、豪快に踊り、阿波武士の心を脈々と伝え、正調武士の踊りを守り続ける連である。
赤穂義士祭④ パレード [祭り]
お城を離れて、パレードを見ることにした。
人混みの中で、カメラを挙げて、ブラインドショットを試みる。
大名行列がやって来た。最初は、奴さんである。以下、私の勝手な呼び名で紹介する。
奴さん
人混みの中で、カメラを挙げて、ブラインドショットを試みる。
大名行列がやって来た。最初は、奴さんである。以下、私の勝手な呼び名で紹介する。
奴さん