高取城跡 [城]
当尾の里を後にして、高取城跡に向かう。カーナビ任せに運転していたが、途中でおかしいなと気づいた。思っている方向と別な方向に進んでいるからだ。よく調べてみると、どうやら自宅に向かって走っているということがわかった。遅ればせながら、軌道を修正、ようやく目的地に向かって、走り出した。到着予定時間は、16時過ぎだ。
高取城は、以前行ったことのある、壷坂寺のさらに山の上にある。時間があれば、壷坂寺に寄るのだが、夕方近くでもあり、ひたすら目的地を目指した。
どんどん山の中に入ると、まわりの道に雪が残っているではないか。少し不安になりながら、山道を進んで行ったが、途中から何と通行止めになっていた。高取城跡整備工事のためとある。
どうしたものかと途方にくれたが、とりあえず引き返すことにした。
少し引き返したところに、案内板があり、近くに石垣があった。高取城跡の一部でも観賞出来ればと、車をとめて、石垣に向かって、歩き出した。
石垣
この石垣が、高取城のどの部分に当たるのか、全くわからない。
周りはこんなところである。
とにかく石垣の上の平地まで登った。まわりは雪で、倒れた木もあちこちにある。平地の向こうに小さなお稲荷さんがあり、その近くまで行った。
お稲荷さん
ここで、高取城の歴史を紹介する。
高取城は、南北朝時代に越智氏によって築かれた。高取城は、越智氏の詰めの城として、越智氏の本城貝吹山城と常に連携を取っていた城である。
天正8年、織田信長の大和国一国一城令により一端廃城となったが、天正12年には筒井順慶が、高取城を大和郡山城の詰の城として復興を開始した。
天正13年、筒井定次は伊賀上野へと移され、大和・和泉・紀伊三国は豊臣秀長が領することになり、高取城へ本多正俊が入った。秀長は、筒井順慶と同様に高取城を詰の城とし、居城大和郡山城の大改修と共に、高取城も近世城郭へと改修した。
本多氏は、大和大納言家断絶後、15,000石を領して大名となったが、寛永14年、本多利家に嗣子無く断絶。 寛永17年に植村家政が25,000石で入封し、植村氏が明治まで代々領した。
高取城は、「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と景観をうたわれたそうであるが、雪と言われた高取山中に連なった白壁は残っていないが、日本三大山城(美濃岩村城、備中松山城、大和高取城)の一つに数えられる。
おそらく、私の立っているところは、近くに八幡神社があることから八幡曲輪の辺りだと思う。山道をさらに登って行けば、本丸に達するのだと思うが、日も暮れてきたし、周りには私以外に誰もいないので、山を下ることにした。
ただ、日本100名城のスタンプは押したいので、設置場所の観光案内所の「夢創館」というのをカーナビで調べたが、わからなかった。おそらく、町の中心地だろうと近くの駅を目指して走っていたら、意外に早く見つけることが出来た。
夢創館
駐車場のとめて、資料館に入ると、おばさんがすぐにスタンプを出してくれた。スタンプを押すと、何も買物をすることもなく(無料の案内所なので、特に気兼ねをする必要もないのだが)、そそくさと退出した。
時間がなく、高取町をすぐ後にしたが、観光するところも沢山あり、もう一度ゆっくり来たいところだと思った。高取城跡も、すべての石垣を見たいものだ。
(完)
最近、城再建がブームのようですね。
by Silvermac (2008-02-17 10:05)
おはようございます。
雪で寒むそうですが、こんな所を歩いてみたいです。
お越しいただきnice!を、ありがとうございました。m(_ _)m
by mami (2008-02-17 11:01)
SilverMac さん
いわゆる町興しですね。
郷土の歴史に興味を持つことはいいことです。
by マイケル (2008-02-17 16:09)
mamiさん
私にも雪国に憧れるところがありますが、実際に住んでみると大変でしょうね。
by マイケル (2008-02-17 16:10)
こちらの山間部でも、屋地や畑は植林に変わり果てています・・・。
by Baldhead1010 (2008-02-17 17:12)
日本百名城には山城もたくさんあるのでしょうか。
だとしたら全部回るのは大変なことですね。
by レイン (2008-02-17 18:25)