嵯峨野散歩① 嵐山から清涼寺 [神社仏閣]
遅ればせながらの夏休みをとった。お盆も過ぎており、皆仕事で一人だけ休みのようで、何か後ろめたいような気がする。子どもたちは、夏休みだが、塾やクラブで家にいないことが多い。手持無沙汰で京都に出かけることにした。しかし、暑い最中特に見るものもないのだが、今まで行ったことのない大覚寺を訪れることにした。ついでに嵯峨野で行ったことのないところがあれば寄ろうと思った。
いつもの通り阪急京都線の梅田駅で乗り、嵐山駅で降りる。渡月橋を見ながら、ベンチに座り、コンビニで買った弁当を食べる。夏休みであり、さすが京都でもあり、人出はそこそこであるが、春や秋のシーズンと比べると寂しい。
渡月橋
嵐山
大覚寺まで少し距離があり、レンタサイクルを借りようか、バスに乗ろうか迷ったが、日頃の運動不足もあり、歩くことにした。
途中、道のほとりにお地蔵さんが並んでいた。天龍寺の辺りか。京都らしい。
大覚寺に行く途中で立派な山門のあるお寺があった。寺名は、清涼寺とある。
仁王門
1776再建。金剛力士像は室町後期のもの。
同じく仁王門。境内から見たところ。
帰ってから、清涼寺について調べてみた。
清凉寺は、浄土宗の寺院で、山号を五台山と称する。嵯峨釈迦堂の名で知られる。中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算である。
この地には、もともと、光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観があった。寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。
棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山を巡礼した奝然(938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれた。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016年)没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
弘安2年(1279年)、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、この寺で融通念仏を勤修した。その後、この寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、嘉吉3年(1443年)である。その後、応仁の乱でこの寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。
享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝)に、その名残りをとどめる。
本堂(釈迦堂)
三国伝来の釈迦像を安置する。元禄14年(1701年)の再建である。
多宝塔
京都府文化財・江戸時代 1700年建立。 高さ約13m。
法然上人求道青年像
阿弥陀堂
文久3年(1863年)の再建である。
一切経蔵(輪蔵)
傅大士父子像が安置されている。
弥勒多宝石仏
豊臣秀頼公首塚
昭和55年に大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した首が納められたもの。
(続く)
いつもの通り阪急京都線の梅田駅で乗り、嵐山駅で降りる。渡月橋を見ながら、ベンチに座り、コンビニで買った弁当を食べる。夏休みであり、さすが京都でもあり、人出はそこそこであるが、春や秋のシーズンと比べると寂しい。
渡月橋
嵐山
大覚寺まで少し距離があり、レンタサイクルを借りようか、バスに乗ろうか迷ったが、日頃の運動不足もあり、歩くことにした。
途中、道のほとりにお地蔵さんが並んでいた。天龍寺の辺りか。京都らしい。
大覚寺に行く途中で立派な山門のあるお寺があった。寺名は、清涼寺とある。
仁王門
1776再建。金剛力士像は室町後期のもの。
同じく仁王門。境内から見たところ。
帰ってから、清涼寺について調べてみた。
清凉寺は、浄土宗の寺院で、山号を五台山と称する。嵯峨釈迦堂の名で知られる。中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算である。
この地には、もともと、光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観があった。寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。
棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山を巡礼した奝然(938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれた。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016年)没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
弘安2年(1279年)、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、この寺で融通念仏を勤修した。その後、この寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、嘉吉3年(1443年)である。その後、応仁の乱でこの寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。
享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝)に、その名残りをとどめる。
本堂(釈迦堂)
三国伝来の釈迦像を安置する。元禄14年(1701年)の再建である。
多宝塔
京都府文化財・江戸時代 1700年建立。 高さ約13m。
法然上人求道青年像
阿弥陀堂
文久3年(1863年)の再建である。
一切経蔵(輪蔵)
傅大士父子像が安置されている。
弥勒多宝石仏
豊臣秀頼公首塚
昭和55年に大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した首が納められたもの。
(続く)
京都はいいですね~ 今年も秋に計画中・・
by イチロー (2008-09-01 10:52)
イチロー さん
紅葉の時期が最高です。
by マイケル (2008-09-09 06:56)