金熊寺梅林① [その他の花]
天気が良い日曜日、久し振りにドライブに出かけることにした。
少し早いかもしれないが、梅を見に行くことにした。
インターネットで調べると、 金熊寺梅林というところが五分咲きである。
例によって、カーナビまかせである。
お寺の駐車場まで行くと満車で入れない。少し戻って、離れたところの駐車場に入れることにした。駐車料金500円を払うと、おまけに採り立ての椎茸をくれた。この辺りの駐車場はどこもおまけ付きらしい。
金熊寺
この寺の開基は682年(天武天皇10年)、役行者が夢のお告げにより、土中より6寸の金銅像を得、自らも4寸の木像を刻し、3間4面の堂を建立して安置したのを始まりとする。
寺名は役行者が当寺の鎮守として金峯・熊野の両神を勧請し、信達神社に合祀したことに因む。
その後、後鳥羽院(1183~98年)の熊野参詣の途上に金熊寺権現社に参拝があるなど、鎮護国家の宏大な堂塔であった。
鎌倉末期の正安元年(1299年)には永仁の徳政令の煽りで焼き討ちに遭い、諸堂が罹災したが、本尊と薬師堂は焼失から免れた。1312年(応長2年)、1338年(歴応2年)との修復を重ね、元の形に近い形に戻った。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻めの兵火に遭ったが、1654年(承応2年)信達村13ヶ村の人々の善意により再興し、現在に至っている。
1691年(元禄4年)の『寺社境内坪数御改帳』には鎮守社(現信達神社)、薬師堂、観音堂、地蔵堂、神主屋敷などを含め境内は4万7400坪余と記され、広大な敷地であったようである。金熊寺は多くの堂、塔頭を総称する一山であったが、現在は塔頭観音院のみが残り、金熊寺の寺跡を継いでいる。
山門はなく、すぐ隣に信達神社の鳥居と狛犬がある。
境内に入ると、右手に鐘楼があり、納経所の横に枝垂れ梅が見事に花をつけている。
ここでも、修行中の大師像がある。四国八十八カ所のお寺には必ずあった。
本堂
行者堂
(続く)
少し早いかもしれないが、梅を見に行くことにした。
インターネットで調べると、 金熊寺梅林というところが五分咲きである。
例によって、カーナビまかせである。
お寺の駐車場まで行くと満車で入れない。少し戻って、離れたところの駐車場に入れることにした。駐車料金500円を払うと、おまけに採り立ての椎茸をくれた。この辺りの駐車場はどこもおまけ付きらしい。
金熊寺
この寺の開基は682年(天武天皇10年)、役行者が夢のお告げにより、土中より6寸の金銅像を得、自らも4寸の木像を刻し、3間4面の堂を建立して安置したのを始まりとする。
寺名は役行者が当寺の鎮守として金峯・熊野の両神を勧請し、信達神社に合祀したことに因む。
その後、後鳥羽院(1183~98年)の熊野参詣の途上に金熊寺権現社に参拝があるなど、鎮護国家の宏大な堂塔であった。
鎌倉末期の正安元年(1299年)には永仁の徳政令の煽りで焼き討ちに遭い、諸堂が罹災したが、本尊と薬師堂は焼失から免れた。1312年(応長2年)、1338年(歴応2年)との修復を重ね、元の形に近い形に戻った。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻めの兵火に遭ったが、1654年(承応2年)信達村13ヶ村の人々の善意により再興し、現在に至っている。
1691年(元禄4年)の『寺社境内坪数御改帳』には鎮守社(現信達神社)、薬師堂、観音堂、地蔵堂、神主屋敷などを含め境内は4万7400坪余と記され、広大な敷地であったようである。金熊寺は多くの堂、塔頭を総称する一山であったが、現在は塔頭観音院のみが残り、金熊寺の寺跡を継いでいる。
山門はなく、すぐ隣に信達神社の鳥居と狛犬がある。
境内に入ると、右手に鐘楼があり、納経所の横に枝垂れ梅が見事に花をつけている。
ここでも、修行中の大師像がある。四国八十八カ所のお寺には必ずあった。
本堂
行者堂
(続く)
今日も暖かくて、ドライブと撮影日和でしたね!
梅ももう見ごろですね!^^
by Yuki (2009-02-16 00:20)
毎日のように金熊寺の側を通っているのに、行った事がありません。
そう言えば、盆梅展の看板を見たような。
by kaisersd (2009-02-16 00:28)
Yuki さん
梅から桜へと、これから楽しみです。
by マイケル (2009-02-16 07:12)
kaisersd さん
お近くですか?
by マイケル (2009-02-16 07:13)
駐車場に停めて、しいたけをもらえるなんて、得した気分ですね。
この1年くらいそんなおまけをもらった記憶がないです。。。
by ノリパ (2009-02-16 17:21)
ノリパ さん
椎茸も国内産はそこそこしますね。
by マイケル (2009-02-18 06:53)