第50番 繁多寺 [四国八十八ヶ所めぐり]
名称 東山 繁多寺
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
住所 愛媛県松山市畑寺町32
ご詠歌 よろずこそ はんたなりとも おこたらず
しょびょうなかれと のぞみいのれよ
このお寺は天平勝宝年間(749‐ 57)孝謙天皇の勅願によって行基が開創し、3尺の薬師如来像を刻んで本尊とした。
弘法大師が弘仁年間(810‐24)この地にしばらく止まり、堂塔を 整えて東山・繁多寺と号した。
その後、寺運は衰え、堂塔はさ びれるにまかせていたが、源頼義によって再建された。
弘安2年には後宇多天皇の蒙古来襲退散の祈願の勅命を奉じて下向した聞月上人がこの寺で祈祷したと伝えられている。
時宗の開祖一遍上人は延応2年(1239-39)伊予の豪族河野道広の子として生まれたが、15才の折父を失ったのが動機で出家した。47才のころこの寺に長く止 まって修行したといわている。上人は明治19年に円照大師、さらに昭和15年には証誠大師とおくリ名された。
本堂
大師堂
路傍の桔梗
大師像
興教大師像
(続く)
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
住所 愛媛県松山市畑寺町32
ご詠歌 よろずこそ はんたなりとも おこたらず
しょびょうなかれと のぞみいのれよ
このお寺は天平勝宝年間(749‐ 57)孝謙天皇の勅願によって行基が開創し、3尺の薬師如来像を刻んで本尊とした。
弘法大師が弘仁年間(810‐24)この地にしばらく止まり、堂塔を 整えて東山・繁多寺と号した。
その後、寺運は衰え、堂塔はさ びれるにまかせていたが、源頼義によって再建された。
弘安2年には後宇多天皇の蒙古来襲退散の祈願の勅命を奉じて下向した聞月上人がこの寺で祈祷したと伝えられている。
時宗の開祖一遍上人は延応2年(1239-39)伊予の豪族河野道広の子として生まれたが、15才の折父を失ったのが動機で出家した。47才のころこの寺に長く止 まって修行したといわている。上人は明治19年に円照大師、さらに昭和15年には証誠大師とおくリ名された。
本堂
大師堂
路傍の桔梗
大師像
興教大師像
(続く)
タグ:四国八十八ヵ所めぐり お寺
2009-08-02 10:02
nice!(22)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0