京都伏見散歩④ 寺田屋 [その他観光・レジャー]
来年のNHK大河ドラマは、「龍馬伝」である。来年は坂本龍馬に因んだ観光地が賑わうことだろう。一足先に、京都伏見の寺田屋を訪れることにした。
寺田屋
幕末期、寺田屋は討幕派の定宿となった所である。薩摩藩主同士の闘争事件、寺田屋騒動のあった場所として知られている。また、坂本龍馬が後に妻となるお龍の転機で、危うく難を逃れた所としても有名。
入り口は、隣の公園にある。
公園には、いろいろ龍馬に関係するものがある。
鳥居
十代の頃の坂本龍馬がつくった歌である。
世の人はわれを 何とも云はばいへ わがなすことは 我のみぞ知る
龍 馬
坂本龍馬の碑
まず、寺田屋騒動である。文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件である。
藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負った。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体路線であった。このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集った。
久光は大久保一蔵等を派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗。彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ(大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。さらに上床源助が志願して加わり計9名)。
大山綱良らは新七に藩邸に同行するように求めたが新七はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と新七ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負った。また2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。
負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要路に立った。
この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。
次に、坂本龍馬襲撃事件である。
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした。龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、しばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。お龍は風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせた。龍馬は主に銃で反撃。左手の親指を負傷した。
この坂本龍馬襲撃事件も含めて、寺田屋事件ということがある。
なお、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたのは、京都河原町の近江屋である。
寺田屋の室内に入ると、坂本龍馬に因んだものが、展示されている。
幕末当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。
今の建物は、現在も旅館として使用されており、実際に宿泊出来るらしい。そういえば、部屋の中に小さなテレビが置いてあった。
(完)
寺田屋
幕末期、寺田屋は討幕派の定宿となった所である。薩摩藩主同士の闘争事件、寺田屋騒動のあった場所として知られている。また、坂本龍馬が後に妻となるお龍の転機で、危うく難を逃れた所としても有名。
入り口は、隣の公園にある。
公園には、いろいろ龍馬に関係するものがある。
鳥居
十代の頃の坂本龍馬がつくった歌である。
世の人はわれを 何とも云はばいへ わがなすことは 我のみぞ知る
龍 馬
坂本龍馬の碑
まず、寺田屋騒動である。文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件である。
藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負った。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体路線であった。このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集った。
久光は大久保一蔵等を派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗。彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ(大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。さらに上床源助が志願して加わり計9名)。
大山綱良らは新七に藩邸に同行するように求めたが新七はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と新七ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負った。また2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。
負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要路に立った。
この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。
次に、坂本龍馬襲撃事件である。
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした。龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、しばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。お龍は風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせた。龍馬は主に銃で反撃。左手の親指を負傷した。
この坂本龍馬襲撃事件も含めて、寺田屋事件ということがある。
なお、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたのは、京都河原町の近江屋である。
寺田屋の室内に入ると、坂本龍馬に因んだものが、展示されている。
幕末当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。
今の建物は、現在も旅館として使用されており、実際に宿泊出来るらしい。そういえば、部屋の中に小さなテレビが置いてあった。
(完)
龍馬の手紙―坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草 (講談社学術文庫)
- 作者: 宮地 佐一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/12
- メディア: 文庫
坂本竜馬―明治維新の原動力 (講談社火の鳥伝記文庫 (58))
- 作者: 砂田 弘
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- メディア: 新書
維新創世坂本竜馬―“日本の夜明け”を疾駆した快男児 (歴史群像シリーズ―新・歴史群像シリーズ)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 2006/06
- メディア: 単行本
あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン
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坂本龍馬―日本を近代国家に導いた幕末の風雲児 (講談社学習コミック―アトムポケット人物館)
- 作者: すぎた とおる
- 出版社/メーカー: コミックス
- 発売日: 2000/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
竜馬本はいっぱいありますねー。そして、フリーメイソンに操られていたのかなー。
by 春分 (2009-10-04 17:27)
はじめまして、寺田屋 懐かしいです、ここには何回か泊まりました。2階の階段を上がっていつも右の部屋でした、起きたら目の前に大きな鏡があり、ちょっと気持ちがわるかった。朝食は玄関をはいって左の部屋で、床の上に畳の座布団で一人づつの膳でした。荷物は毎日見学の観光客がくるので、その朝食した部屋に預けていきました。あれから26年、写真でみるとなんだかきれいになっているみたい。当時のお姉さんもいまでは50を過ぎておられるでしょうね。
by 官兵衛 (2009-10-04 21:56)