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津山城跡① 歴史 [城]

ゴールデン・ウィークを利用して帰省、途中津山城跡に寄る。

渋滞に巻き込まれ、着いたのは、3時過ぎである。

裏門の近くの駐車場に停める。

5月というのに、桜が残っていた。

桜と津山城跡.jpg

石段.jpg

石垣ばかりであるが、石垣の間を縫って、石段を登っていく。

案内板.jpg

案内板を見ると、桜のシーズンは素晴らしいようだ。

石段2.jpg

少し石段を登って、下を見下ろす。


津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、鶴山に築いた平山城である。

忠政は、元亀元年(1570)美濃金山城主・森可成の6男として生まれた。
本能寺の変では蘭丸・坊丸・力丸の3人の兄を失い、天正12年(1584)、森家の当主であった兄・長可が、小牧・長久手の合戦で戦死したため、その跡目として、当時15歳だった末弟の忠政に金山7万石が羽柴秀吉から与えられた。
天正13年(1585)、秀吉に従って越前の佐々成政征討に初陣。天正18年(1590)小田原攻めに参加。文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵に動員された。
慶長3年(1598)秀吉が没すると、忠政は急速に徳川家康に接近する。慶長5年(1600)2月、家康は兄・長可の故地であった信濃4郡13万7,500石を忠政に与え、同年3月、忠政は美濃・金山城から信濃・川中島の海津城(松代城)に移る。
慶長8年(1603)3月、美作国18万6,500石に加増・転封となり、美作へ入国。院庄へ入る。
翌慶長9年(1604)春、鶴山を「津山」と改めて築城に着手、12年後の元和2年(1616)3月に一応の完成を見た。

元禄10年(1697)、4代藩主・長成が27歳で病死し、まだ実子がなかったため、その末期養子となった長成の叔父・関衆利が江戸に出府するが、途中、伊勢国桑名近くで高熱を発し、江戸出府が不可能になったため、幕府は森家から美作国を没収する。
 
元禄10年(1697)森家国除の後、幕府は広島城主・浅野綱長を城番として津山城を守らせた。
元禄11年、幕府は松平宣富を津山城主とし、美作国のうち10万石を授けた。
松平家の藩領は、享保11年(1726)、2代藩主・浅五郎が没したあと、5万石に減り、文化14年(1817)、7代藩主・斉孝のとき10万石に復し、9代藩主・慶倫のときに明治の廃藩置県を迎えた。

城郭の形式は梯郭式平山城。津山盆地の中央部に位置する。城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成している。

津山城の天守は破風を持たない4重5階の独立型層塔形式で、小倉城の天守を模して造られたともいわれている。築城当初、天守は5重であったが、その巨大さゆえに幕府に目をつけられたため、忠政は4重目の瓦を破棄し「あれは庇(ひさし)であって4重である」と言い切り難を逃れたと伝えられている。往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さであったが、明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなっている。2005年に備中櫓が復元された。

何とも勿体ないことだ。

石垣しか残っていないが、歩いていると往時の城閣の威容が想像される。

石垣.jpg

石垣の真中に排水口も見られる。

干飯ヤグラ跡.jpg

干飯ヤグラ跡である。とにかく櫓の跡が多い。

三の丸.jpg

(続く)


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コメント 2

ノリパ

立派な石垣ですよね。天守台もすごかった記憶があります。
また行ってみたいお城です。
by ノリパ (2011-05-29 15:47) 

Silvermac

石垣だけですが、規模が大きいようですね。
by Silvermac (2011-05-29 20:47) 

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