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備中松山城再訪③ [城]

いよいよ本丸である。

天守へ.jpg

入場料を払って入る。

天守閣.jpg
天守閣2.jpg


備中松山城の歴史である。

仁治元年(1240年)、秋葉重信が備中有漢郷の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。城主は上野氏、庄氏、三村氏と変遷し、戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。

慶長4年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番として小堀正次・政一を置いた。

元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。

水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。

慶応4年1月18日(1868年2月11日)戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。

天守閣内部へ.jpg

天守閣の内部に入る。

天守閣内部.jpg

天守閣の裏手に、二重櫓がある。

二重櫓.jpg

これも、重要文化財である。

(続く)

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Silvermac

宇和島城を彷彿させます。
by Silvermac (2011-07-27 06:09) 

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