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鳥取城跡① 吉川経家と仁風閣 [城]

夏休みを利用して、日本100名城巡りをする。

実家に帰るついでに、鳥取に立ち寄る。かなり大廻りだ。

まずは、鳥取城跡を見学しようと、久松公園に向かう。あいにく駐車場がいっぱいでうろうろする。かなり離れたところであるが、県庁の隣の駐車場を見つけて、入れる。

鳥取城堀.jpg

堀沿いに歩いていく。途中、大きな銅像が立っている。

吉川経家.jpg

吉川経家公とある。吉川 経家は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣で、吉川経安の嫡男。石見吉川氏であり、吉川本家の庶流の生まれである。

秀吉の鳥取城攻略戦の際のお話である。

天正9年(1581年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国討伐軍が因幡国まで侵攻した。城主山名豊国は織田氏に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉・中村春続に追放されることとなった。森下・中村の両名は吉川元春に支援を求め、吉川一門の派遣を要請した。元春はこの要請を受け入れ、吉川一門で文武両道に優れた名将として、経家に鳥取城を守備するよう命令を下した。この時、経家は自らの首桶を用意したという。

天正9年(1581年)2月、経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めた。しかし、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しか無いことを知り愕然とした。羽柴秀吉の策略により、因幡国の兵糧は秀吉の密命によって潜入した若狭の商人によって全て高値で買い漁られており、鳥取城の城兵もその高値に釣られて備蓄していた兵糧米を売り払っていたのである。このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。

6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲し、攻撃を開始した。秀吉は無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗。兵糧は尽き、2ヶ月目には城内の家畜や植物も食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始める。4ヶ月の籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。

秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、信長はそれに対し、経家の自害を許可している。

10月25日、経家は自害して、その一生を終えた。

辞世の句は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」

自害後、その首は秀吉の下に届けられ、その後安土の織田信長に送られ、信長によって丁重に葬られた。




鳥取城跡に登る前に、日本100名城のスタンプをもらうため、麓にある仁風閣という洋館を見学する。

仁風閣.jpg
仁風閣は、フランスルネッサンス様式の西洋館で、中国地方屈指の明治建築として名高く、1973年6月2日に国の重要文化財に指定された。

1907年、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられた、旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命名したものである。

室内.jpg

館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示されている。

東郷平八郎の書.jpg

東郷平八郎の書もある。

会議室.jpg
謁見所

食堂.jpg
バルコニー.jpg

仁風閣の二階から眺める。

表庭.jpg
玄関前の庭

裏庭.jpg
裏の芝生の庭

仁風閣から見た城あと.jpg
鳥取城跡の石垣を見上げる。

(続く)

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コメント 1

ノリパ

それがしもこの間行きました。お城もよかったですけど、仁風閣がよかったです。
またいってみたいお城です!
by ノリパ (2011-09-01 21:49) 

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