第33番雪蹊寺と秦神社 [四国八十八ヶ所めぐり]
名称 高福山 雪蹊寺
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 薬師如来
住所 高知県高知市長浜857-3
ご詠歌 たびのみち うえしもいまは こうふくじ のちのたのしみ ありあけのつき
延暦年間(708‐806)弘法大師によって開基された。当時は、少林山・高福寺と号して真言宗に属していた。その頃のものとしては大師自作の大師坐像が現存している。その後寺は長い間荒廃していたが、藩主長曽我部元親元と面識の深い月峰上人が住職となり、元親公の厚い庇護により中興した。宗派も元親公の宗派臨済宗に改め、公の法名に因んで雪蹊寺と号した。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となったが、その後同12年再興されて現在に至る。
境内
本堂
大師堂
空海像
雪蹊寺の東隣に秦神社というのが建っている。如何にも古そうで、歴史がありそうであるが、実は明治初年の神仏分離の際に創建されたもので、その時に雪蹊寺から「絹本着色長宗我部元親画像」(国重文)や「戸次川合戦戦死者霊板(大位牌)」などが移されて社宝とされた。長宗我部元親の木像を御神体としている。
鳥居
狛犬
桜
本殿
祭神は長宗我部元親で、神体は衣冠束帯の木像。
慶長4年(1599)上洛中、京都伏見で没した元親は、遺骨を天甫寺山に納めて墓が営まれ、雪蹊寺が菩提寺とされた。しかし明治初年の神仏分離の際、雪蹊寺は一時廃寺となり、元親を祀る神社として当社が創建され、併せて長宗我部氏代々の霊を祀り、現在に至っている。社名は長宗我部氏の本姓秦による。社殿には豊臣秀吉の九州征伐の折、豊後戸次川の戦で死んだ長宗我部氏家臣の連名大位牌も祀られている。
長宗我部元親にゆかりの土地に来て、高知に来たのだなあと実感した。
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 薬師如来
住所 高知県高知市長浜857-3
ご詠歌 たびのみち うえしもいまは こうふくじ のちのたのしみ ありあけのつき
延暦年間(708‐806)弘法大師によって開基された。当時は、少林山・高福寺と号して真言宗に属していた。その頃のものとしては大師自作の大師坐像が現存している。その後寺は長い間荒廃していたが、藩主長曽我部元親元と面識の深い月峰上人が住職となり、元親公の厚い庇護により中興した。宗派も元親公の宗派臨済宗に改め、公の法名に因んで雪蹊寺と号した。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となったが、その後同12年再興されて現在に至る。
境内
本堂
大師堂
空海像
雪蹊寺の東隣に秦神社というのが建っている。如何にも古そうで、歴史がありそうであるが、実は明治初年の神仏分離の際に創建されたもので、その時に雪蹊寺から「絹本着色長宗我部元親画像」(国重文)や「戸次川合戦戦死者霊板(大位牌)」などが移されて社宝とされた。長宗我部元親の木像を御神体としている。
鳥居
狛犬
桜
本殿
祭神は長宗我部元親で、神体は衣冠束帯の木像。
慶長4年(1599)上洛中、京都伏見で没した元親は、遺骨を天甫寺山に納めて墓が営まれ、雪蹊寺が菩提寺とされた。しかし明治初年の神仏分離の際、雪蹊寺は一時廃寺となり、元親を祀る神社として当社が創建され、併せて長宗我部氏代々の霊を祀り、現在に至っている。社名は長宗我部氏の本姓秦による。社殿には豊臣秀吉の九州征伐の折、豊後戸次川の戦で死んだ長宗我部氏家臣の連名大位牌も祀られている。
長宗我部元親にゆかりの土地に来て、高知に来たのだなあと実感した。
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか) (PHP文庫 に 11-3 大きな字)
- 作者: 二宮 隆雄
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2007/05/02
- メディア: 文庫
長宗我部元親―四国の雄、三代の栄光と苦悩 (歴史群像シリーズ 29)
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- 出版社/メーカー: 学習研究社
- 発売日: 1992/07
- メディア: 単行本
私も先月くらいに行きました。
by SilverMac (2008-06-28 23:14)
SilverMac さん
これは実は4月の記事です。
by マイケル (2008-06-29 10:44)