徳島県立鳥居記念博物館(岡崎城) [城]
鳴門市の小高い山の上にお城の天守閣が見える。以前から、何というお城かなと考えていたが、鳥居記念博物館の建物というのが最近になってわかった。
山は妙見山という山で、鳥居記念博物館は阿波九城の一つ岡崎城跡に昭和40年(1965年)に立てられた。天守閣は、岡崎城の再建でもあるのだ。館内には考古学者として世界的に著名な故鳥居龍蔵博士がロシア・中国・モンゴルなどで収集した貴重な資料が展示されている。鳥居龍蔵(1870~1953)は、明治から昭和にかけて活躍した人類学・考古学・民族学の研究者である。
妙見山の上の天守閣
鳴門市内からカーナビに従って、山道を登って行く。あまり車の往来はありそうにない、寂しい道だ。がらんとした車もほとんどとまっていない駐車場に行き着く。そこが行き止まりでその先車で行けないことから、車を降りる。
鳥居記念博物館は、すく近くにあるはずだが、何の案内板もない。右の方に行くと、ふれあい花壇というのがあるが、今の時期何の花も咲いていない。その周囲にいくつもの裸婦の彫刻が配置してある。それぞれタイトルが付いている。ほとんど観賞する人もおらず、もったいない限りだ。
春光
秋意
潮の香
タイトル不明
駐車場のところまで戻り、今度は左側の道を登って行く。今度は、記念館に着きそうだ。
途中、鳴門市街が展望できるところがあった。
また、妙見神社という由緒ありそうな神社もあった。
妙見神社
そして、いよいよ鳥居記念博物館である。
立派なお城である。
鳥居龍蔵の経歴と事蹟は、記念館のHPによれば、以下のとおりである。
鳥居龍蔵は、1870年(明治3)4月4日、徳島市東船場に生まれる。小学校を中退し、独学で人類学を学び、1890年には東京へ遊学、2年後の1892年には一家を挙げて東京に移住。東京帝国大学理科大学人類学教室の坪井正五郎博士に師事し、標本整理をしながら研究に専念した。
1905年、東京帝国大学講師となり、1921年(大正10)には文学博士の学位を受け、その翌年に東京帝国大学助教授に昇進、人類学教室第二代主任となったが、1924年に辞職して鳥居人類学研究所を設立し、きみ子夫人ら家族とともに活動した。
国学院大学教授、上智大学文学部長兼教授、東方文化学院東京研究所評議員・研究員を歴任。1939年(昭和14)には、招かれて中国北京の燕京大学教授に就任し、1951年帰国。『ある老学徒の手記』(朝日新聞社)の刊行を最後に、1953年1月14日、東京都にて生涯を閉じた。82歳。
鳥居は、日本国内をはじめ、朝鮮半島・中国東北部・モンゴル・西南中国・台湾・千島列島・サハリン・東部シベリア・南米ブラジル・ペルー・ボリビアなどの各地を精力的に調査したフィールドワーカーであった。カメラの導入など、先進的な調査方法の開拓者でもあった。著書・論文多数。日本における人類学研究の先覚者として大きな業績を残している。
鳥居記念博物館は、3層になっており、一番上からは、鳴門市街が見下ろせる。
シャチホコ
向こうに見える橋は、大鳴門橋ではなく、小鳴門橋である。
山は妙見山という山で、鳥居記念博物館は阿波九城の一つ岡崎城跡に昭和40年(1965年)に立てられた。天守閣は、岡崎城の再建でもあるのだ。館内には考古学者として世界的に著名な故鳥居龍蔵博士がロシア・中国・モンゴルなどで収集した貴重な資料が展示されている。鳥居龍蔵(1870~1953)は、明治から昭和にかけて活躍した人類学・考古学・民族学の研究者である。
妙見山の上の天守閣
鳴門市内からカーナビに従って、山道を登って行く。あまり車の往来はありそうにない、寂しい道だ。がらんとした車もほとんどとまっていない駐車場に行き着く。そこが行き止まりでその先車で行けないことから、車を降りる。
鳥居記念博物館は、すく近くにあるはずだが、何の案内板もない。右の方に行くと、ふれあい花壇というのがあるが、今の時期何の花も咲いていない。その周囲にいくつもの裸婦の彫刻が配置してある。それぞれタイトルが付いている。ほとんど観賞する人もおらず、もったいない限りだ。
春光
秋意
潮の香
タイトル不明
駐車場のところまで戻り、今度は左側の道を登って行く。今度は、記念館に着きそうだ。
途中、鳴門市街が展望できるところがあった。
また、妙見神社という由緒ありそうな神社もあった。
妙見神社
そして、いよいよ鳥居記念博物館である。
立派なお城である。
鳥居龍蔵の経歴と事蹟は、記念館のHPによれば、以下のとおりである。
鳥居龍蔵は、1870年(明治3)4月4日、徳島市東船場に生まれる。小学校を中退し、独学で人類学を学び、1890年には東京へ遊学、2年後の1892年には一家を挙げて東京に移住。東京帝国大学理科大学人類学教室の坪井正五郎博士に師事し、標本整理をしながら研究に専念した。
1905年、東京帝国大学講師となり、1921年(大正10)には文学博士の学位を受け、その翌年に東京帝国大学助教授に昇進、人類学教室第二代主任となったが、1924年に辞職して鳥居人類学研究所を設立し、きみ子夫人ら家族とともに活動した。
国学院大学教授、上智大学文学部長兼教授、東方文化学院東京研究所評議員・研究員を歴任。1939年(昭和14)には、招かれて中国北京の燕京大学教授に就任し、1951年帰国。『ある老学徒の手記』(朝日新聞社)の刊行を最後に、1953年1月14日、東京都にて生涯を閉じた。82歳。
鳥居は、日本国内をはじめ、朝鮮半島・中国東北部・モンゴル・西南中国・台湾・千島列島・サハリン・東部シベリア・南米ブラジル・ペルー・ボリビアなどの各地を精力的に調査したフィールドワーカーであった。カメラの導入など、先進的な調査方法の開拓者でもあった。著書・論文多数。日本における人類学研究の先覚者として大きな業績を残している。
鳥居記念博物館は、3層になっており、一番上からは、鳴門市街が見下ろせる。
シャチホコ
向こうに見える橋は、大鳴門橋ではなく、小鳴門橋である。
2008-08-17 21:51
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コメント(8)
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良い施設と思いますが、作りっぱなしという感じですね。行政の怠慢でしょうか。
by SilverMac (2008-08-18 06:26)
SilverMac さん
どんどん一般の人に見て欲しいですね。
by マイケル (2008-08-18 07:17)
妙見山からは鳴門の景色を眺めてきました。
この後遊覧船も楽しかったです。
by 旅爺さん (2008-08-18 08:41)
おはようございます^^
どうも日本の行政の典型を見るようですね~
勿体無いですね~
by mimimomo (2008-08-18 09:04)
ま、現在は知る人ぞ知る穴場的な博物館ですね。
by イチロー (2008-08-18 09:33)
ここ、知らなかったです。
小鳴門橋には望遠鏡をのぞきに、何回か行ったのですが。
by kaisersd (2008-08-18 23:22)
鳥居龍蔵記念館はもうすぐ閉館する様です。中の収蔵品は徳島県立博物館へ移動されます。出来た当初は小学校の遠足で行った記憶があります。少し寂しいです。春には桜の名所になります。
by denchan (2010-01-05 17:53)
鳥居龍蔵記念館はもうすぐ閉館する様です。中の収蔵品は徳島県立博物館へ移動されます。出来た当初は小学校の遠足で行った記憶があります。少し寂しいです。春には桜の名所になります。
by denchan (2010-01-05 18:06)