安土城跡④ 山上へ [城]
安土城跡は、標高199mの安土山一帯にある織田信長(1534-82)の居城跡で、国指定の特別史跡である。
安土城の本丸跡まで登るのに、40分程かかる。体力的にはあまり自信がなかったが、せっかく来たからには登ることにした。
ただ、石垣があるだけだが、ところどころに案内板を配して、解説がなされている。
案内板
登り口
前田利家邸跡
羽柴秀吉邸跡
こうして実名で戦国武将の屋敷跡が示されると、この山の中に本当に町があったのだなあと感じた。
安土城には家内と二人で行ったのだが、帰って子供たちに、安土城に行って来たよと報告すると、一番下の中学3年生の男の子が、普段は親と一緒に出かけるのを嫌がるのに、僕も行きたかったと言った。最近少し歴史に興味を覚えるようになったのだ。
そういえば、以前NHKのニュースで、最近女性の間で戦国武将のグッズがブームになっていると聞いた。戦国武将に今の男性に足りない男らしさを感じているようだ。
ここで、安土城の歴史についてね復習しておきたい。
安土城は、天正4年(1576年)、織田信長が、観音寺城の支城のあった安土山に、総普請奉行に丹羽長秀を据え、足かけ7年の歳月をかけ完成させた。岐阜城よりも京に近いため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる立地条件が築城の目的であった。その規模の大きさ壮麗さは、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の壮麗な天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけた石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。
安土城は、1582年(天正10)の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみである。
天主・本丸の焼失の原因についてはいくつかの説がある。
織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したのが天主に延焼したという説。これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には「織田信雄が暗愚だったので放火した」とある。
明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説。しかし秀満は坂本城での自刃の際、多くの文化財を明け渡してから放火しているため考えにくい。
略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説。
落雷によって焼失したとする説等々。
本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、天正13年(1585年)をもって廃城された。
これらの石仏は、大手道の石材として使われたものである。
これはよくあるケースで、このブログでも何度か紹介した。
姫路城の石垣に石臼が使われていたり、大和郡山城の石垣にも石地蔵が利用されていた。
次第に本丸の天主台に近づいてくる。
本丸跡
天主台跡
天主台から琵琶湖を望む。
感無量。
(続く)
安土城の本丸跡まで登るのに、40分程かかる。体力的にはあまり自信がなかったが、せっかく来たからには登ることにした。
ただ、石垣があるだけだが、ところどころに案内板を配して、解説がなされている。
案内板
登り口
前田利家邸跡
羽柴秀吉邸跡
こうして実名で戦国武将の屋敷跡が示されると、この山の中に本当に町があったのだなあと感じた。
安土城には家内と二人で行ったのだが、帰って子供たちに、安土城に行って来たよと報告すると、一番下の中学3年生の男の子が、普段は親と一緒に出かけるのを嫌がるのに、僕も行きたかったと言った。最近少し歴史に興味を覚えるようになったのだ。
そういえば、以前NHKのニュースで、最近女性の間で戦国武将のグッズがブームになっていると聞いた。戦国武将に今の男性に足りない男らしさを感じているようだ。
ここで、安土城の歴史についてね復習しておきたい。
安土城は、天正4年(1576年)、織田信長が、観音寺城の支城のあった安土山に、総普請奉行に丹羽長秀を据え、足かけ7年の歳月をかけ完成させた。岐阜城よりも京に近いため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる立地条件が築城の目的であった。その規模の大きさ壮麗さは、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の壮麗な天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけた石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。
安土城は、1582年(天正10)の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみである。
天主・本丸の焼失の原因についてはいくつかの説がある。
織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したのが天主に延焼したという説。これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には「織田信雄が暗愚だったので放火した」とある。
明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説。しかし秀満は坂本城での自刃の際、多くの文化財を明け渡してから放火しているため考えにくい。
略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説。
落雷によって焼失したとする説等々。
本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、天正13年(1585年)をもって廃城された。
これらの石仏は、大手道の石材として使われたものである。
これはよくあるケースで、このブログでも何度か紹介した。
姫路城の石垣に石臼が使われていたり、大和郡山城の石垣にも石地蔵が利用されていた。
次第に本丸の天主台に近づいてくる。
本丸跡
天主台跡
天主台から琵琶湖を望む。
感無量。
(続く)
信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)
- 作者: 藤本 正行
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信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う (新書y)
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完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2) (中公文庫)
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完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3) (中公文庫)
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こういう石段いいですね。
by Baldhead1010 (2008-09-09 06:10)
以前に登った時よりも整備されていますね。秀吉屋敷跡などを覚えています。
by SilverMac (2008-09-09 06:14)
Baldhead1010 さん
運動不足解消にはいいですね。
by マイケル (2008-09-09 06:59)
SilverMac さん
徐々に整備されています。
by マイケル (2008-09-09 07:00)
ご無沙汰してます。ここには一度でいいから行ってみたいです。
by i-shinkuro (2008-09-15 05:44)