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丸亀再訪⑧ 太助灯籠 [その他観光・レジャー]

中津万象園を後にして、次の目的地はうちわの港ミュージアムだが、さすがに気力・体力とも残っておらず、一駅電車に乗ることにした。讃岐塩谷の駅から乗る。無人駅だ。電車は1時間に1~2本しか停まらない。自動販売機で飲み物を買って、電車が来るのを待つ。汗がどっと噴き出す。私以外には女の人が一人待っているだけだ。

丸亀駅でもう一度下車し、10分程歩く。港の近くだろう、昔の船を展示している小さな公園がある。㊎と書いた大きな帆をはった船だ。

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金毘羅船

江戸時代中期、 「一生に一度は、こんぴらさんへ」と金毘羅参りが盛んになった。

丸亀、多度津、高松、阿波、伊予・土佐街道の金毘羅五街道のうち、最も栄えたのが丸亀街道だった。丸亀は、全国各地から訪れる金毘羅参りの人々で港町として賑わった。文人墨客も丸亀を通って金刀比羅宮へと向かうなど、 大勢の人が行き交い、文化的な刺激にも満ちあふれていた。


かつて金毘羅詣での客で賑わった丸亀港のシンボルとして、太助灯籠が今も立っている。

灯籠.jpg
太助灯籠(たすけとうろう)

旧金毘羅五街道・丸亀街道の出発点にあたり、琴平の高灯籠までの 150丁(約12km)の道のりを参拝客はこの太助灯籠を目印に丸亀港に入港した。

太助灯籠は、今も残る船着き場「新堀湛甫(しんぼりたんぽ)」(1833年建設)に、江戸在住の人々(千人講)が浄財を出し合って天保5年(1834年)に完成。台座には「江戸講中(こうじゅう)」と、そして灯籠の側面には寄進者や世話人ら1,357人の名前が刻まれている。

寄進者の中で、最高額の80両を寄付した「塩原太助」の名にちなみ、「太助灯籠」と呼ばれるようになったといわれている。その後、近くにもう2基の灯籠が建てられたが、第二次大戦の折りに金属供給の憂き目にあって、今は残されていない。



太助灯籠のそばに、威儀を正して座っている武士の像がある。

瀬山登.jpg
瀬山登

その人物の名は瀬山登(せやまのぼる)とある。丸亀京極藩の江戸留守居役という人物で、五万石あまりの貧乏藩にあって、徳川幕府との折衝で骨身を削ってた人物だ。

丸亀港の整備拡張という丸亀藩の大事業で、『新堀湛甫(たんぽ)及び銅灯籠』という名のもとに、なんと二十年もかかって完成させている。

瀬山登は、江戸屋敷の隣にある九州中津藩から、「うちわ」の作り方を教わっている。中津藩も同様の貧乏藩であったので、地元の特産竹をつかって、足軽たちに内職の竹うちわを作らせていた。瀬山登は習った竹うちわに、松脂(まつやに)を塗って涼しげな「硝子団扇(がらすうちわ)」を開発、金毘羅さんに集まる参詣客に売って、ついに幕末には丸亀は全国一の生産地となった。


太助灯籠





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