北陸の旅⑩ 丸岡城 [城]
昨年9月に行った北陸旅行の記事が途中になってしまった。
前日、午前高岡、午後金沢と廻った。生憎、天気はあまりよくなかった。
この日はやっと晴れた。
家内がテニスの試合に出ている間に、福井の丸岡城まで走ることにした。
丸岡城に行くのに、レストラン兼お土産屋さんの駐車所に停める。駐車料金はただだ。公共の施設なのだろう。
歴史民俗博物館もあったのだが、まずは天守閣を見ることにする。
丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(1576)北ノ庄城の支城として築城したお城で、別名、霞ヶ城という。屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財である。
天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。
成重は、「鬼作左」の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。
重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。
本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。
昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
本丸に、お静慰霊碑と伝説「人柱お静」という立札がある。
丸岡城の石垣は、一度ならず二度、三度と崩れ落ちたことから、ついに人柱を立てることになった。そこで選ばれたのが、お静という夫に先立たれた後家であった。しかも、二人の子持ちのうえ、片眼を失明していた。
お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められた。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立った。
だが、お静の約束は、果たされなかった。お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになった。そして時折現れては、恨みごとを述べたという。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っている。
また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになった。
天守閣に登ってみる。
天守閣の内部
天守閣からの眺め
銅像が立っている。友影賢世公の像とある。
友影賢世(ともかげ・けんせい)はかつての丸岡町長である。
昭和23年の福井地震により倒壊した丸岡城の再建に尽力した人物である。
天守閣の立っている小高い丘を下ると、そこは緑の気持ちのいい公園になっている。
また、公園の横に歴史民俗資料館も建っている。
歴史民俗資料館
(続く)
前日、午前高岡、午後金沢と廻った。生憎、天気はあまりよくなかった。
この日はやっと晴れた。
家内がテニスの試合に出ている間に、福井の丸岡城まで走ることにした。
丸岡城に行くのに、レストラン兼お土産屋さんの駐車所に停める。駐車料金はただだ。公共の施設なのだろう。
歴史民俗博物館もあったのだが、まずは天守閣を見ることにする。
丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(1576)北ノ庄城の支城として築城したお城で、別名、霞ヶ城という。屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財である。
天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。
成重は、「鬼作左」の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。
重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。
本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。
昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
本丸に、お静慰霊碑と伝説「人柱お静」という立札がある。
丸岡城の石垣は、一度ならず二度、三度と崩れ落ちたことから、ついに人柱を立てることになった。そこで選ばれたのが、お静という夫に先立たれた後家であった。しかも、二人の子持ちのうえ、片眼を失明していた。
お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められた。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立った。
だが、お静の約束は、果たされなかった。お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになった。そして時折現れては、恨みごとを述べたという。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っている。
また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになった。
天守閣に登ってみる。
天守閣の内部
天守閣からの眺め
銅像が立っている。友影賢世公の像とある。
友影賢世(ともかげ・けんせい)はかつての丸岡町長である。
昭和23年の福井地震により倒壊した丸岡城の再建に尽力した人物である。
天守閣の立っている小高い丘を下ると、そこは緑の気持ちのいい公園になっている。
また、公園の横に歴史民俗資料館も建っている。
歴史民俗資料館
(続く)
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