徳島中央公園散歩③ 花 [桜]
城山を下りて、公園の周りを散策する。
バラ園があるが、バラの花はまだまだだ。
公園の浅い池の向こうに近くのマンションが見える。
ハクモクレンを見上げる老夫婦。老後は、こういう風に生きたいものだ。
バラ園の周りには、いろいろな花が咲いていた。
こんな銅像もあった。
これは、「父の像」という。
バラ園から、川のほとりに出る。川沿いに桜の木が数本植えてある。川沿いの道を散歩する人、ジョギングをする人がいる。
前回の銅像クイズの答えは、徳島藩祖、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)公である。
蜂須賀家政は、安土桃山時代の武将・大名で、蜂須賀正勝(小六)の子で、父の代わりに阿波の大名に任じられる。
永禄元年(1558年)、蜂須賀正勝の嫡男として生まれる。織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。
天正10年(1582年)、山崎の戦いに、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加し、天正12年(1584年)に播磨佐用郡内に3000石を与えられた。
秀吉の天下統一における戦争に従軍し、戦功を挙げた。四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、その戦功により秀吉は正勝に対して阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与えたという。こうして家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の大名となった。
そして徳島城を築城した。阿波踊りは、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥ともいう。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣し、武功を挙げた。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、慶長4年(1599年)に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成を襲撃しようと蜂起したり、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、自身は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送った。しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加して武功を挙げたため、戦後に家康から所領を安堵された。しかし家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を至鎮に譲って隠居した。
慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣では、一時、西軍参加を促す密書に応じて大坂入城を志すも、至鎮に説得されて翻意した。冬・夏の陣で嫡男の至鎮が戦功を挙げたため、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7000石に加増された。
元和6年(1620年)に至鎮が夭折した後、幼くして襲封した嫡孫・忠英の後見を幕府から命じられ、忠英が成人する寛永6年(1629年)まで政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。
戦国以来の長老として、将軍・徳川家光の側に御伽衆として出仕することもあった。寛永15年(1638年)12月30日に死去。享年81。
(完)
バラ園があるが、バラの花はまだまだだ。
公園の浅い池の向こうに近くのマンションが見える。
ハクモクレンを見上げる老夫婦。老後は、こういう風に生きたいものだ。
バラ園の周りには、いろいろな花が咲いていた。
こんな銅像もあった。
これは、「父の像」という。
バラ園から、川のほとりに出る。川沿いに桜の木が数本植えてある。川沿いの道を散歩する人、ジョギングをする人がいる。
前回の銅像クイズの答えは、徳島藩祖、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)公である。
蜂須賀家政は、安土桃山時代の武将・大名で、蜂須賀正勝(小六)の子で、父の代わりに阿波の大名に任じられる。
永禄元年(1558年)、蜂須賀正勝の嫡男として生まれる。織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。
天正10年(1582年)、山崎の戦いに、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加し、天正12年(1584年)に播磨佐用郡内に3000石を与えられた。
秀吉の天下統一における戦争に従軍し、戦功を挙げた。四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、その戦功により秀吉は正勝に対して阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与えたという。こうして家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の大名となった。
そして徳島城を築城した。阿波踊りは、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥ともいう。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣し、武功を挙げた。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、慶長4年(1599年)に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成を襲撃しようと蜂起したり、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、自身は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送った。しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加して武功を挙げたため、戦後に家康から所領を安堵された。しかし家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を至鎮に譲って隠居した。
慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣では、一時、西軍参加を促す密書に応じて大坂入城を志すも、至鎮に説得されて翻意した。冬・夏の陣で嫡男の至鎮が戦功を挙げたため、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7000石に加増された。
元和6年(1620年)に至鎮が夭折した後、幼くして襲封した嫡孫・忠英の後見を幕府から命じられ、忠英が成人する寛永6年(1629年)まで政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。
戦国以来の長老として、将軍・徳川家光の側に御伽衆として出仕することもあった。寛永15年(1638年)12月30日に死去。享年81。
(完)
こんにちは^^
ハクモクレンがあちこちで咲いていて綺麗ですね~。コブシより一足早く咲くのでしょうかね。うちの方のコブシはまだ2~3分咲きです。
蓬庵《蜂須賀家正》は昔の人にしては長生きですね~
by mimimomo (2008-03-23 12:18)
こんにちは~♪ \(^ ^)/ 久々の登場です。(笑)
ハクモクレンを綺麗に撮りたくてPLフィルターを手に入れましたが、今日は雨と強風です。寒くなりました。
お越しいただきnice!を、ありがとうございました。m(_ _)m
by mami (2008-03-23 12:57)
徳島の眉山も桜の季節はきれいな錦絵になるでしょうね^^
by Baldhead1010 (2008-03-23 16:00)
mimimomoさん
ハクモクレンは一番綺麗な時期でした。
by マイケル (2008-03-23 16:47)
mami さん
やはり天気がいい日でないとね。
by マイケル (2008-03-23 16:48)
Baldhead1010 さん
初めて見る眉山の桜が楽しみです。
by マイケル (2008-03-23 16:49)
もうすぐ眉山の桜が満開になりますね。以前、冬にかんぽの宿へ行ったことがあります。
by kohtyan (2008-03-23 18:37)
kohtyanさん
来週ぐらいでしょうか。
by マイケル (2008-03-24 07:04)
モクレンとこぶし間違えそう?
by CARRERA (2008-03-24 15:56)
椿と杜若、ハクモクレンとこぶしは
一見見分けがつきません。。。
砧のこぶしは桜と同じ頃咲くので遠くからみると
白い桜のようで綺麗です
前の銅像の答え、調べたら知らない方だった ^^;
by ももず (2008-03-24 15:58)
蜂須賀小六は聞いたことあるぞw
by ふじかわ (2008-04-11 10:57)