松江城② 天守閣 [城]
いよいよ天守閣である。
何とも美しい天守閣である。
松江城は、別名千鳥城ともいう。日本の12箇所に現存する、江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つである(現存天守)。また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。国の重要文化財に指定されている。
何とも美しい天守閣である。
松江城は、別名千鳥城ともいう。日本の12箇所に現存する、江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つである(現存天守)。また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。国の重要文化財に指定されている。
松江城① 馬溜から二の丸へ [城]
愛媛から、しまなみ海道を通って、広島県の実家へ。そこを起点に各地城巡りをする。
8月15日(日)、山陽自動車道→岡山道→米子道と通って、松江まで行く。朝墓参り等に寄っていたお陰で出発が遅れた。また、さすがにお盆の土日とあって、所々で渋滞が発生していた。
したがって、松江に着いたのは、午後3時であった。
でも、新しいお城を見るのは、新鮮でいいな。
堀の向こうに南櫓と中櫓が見える。
大手門前の馬溜跡
太鼓櫓が見える。
左手に太鼓櫓を見上げながら、石段を登る。
8月15日(日)、山陽自動車道→岡山道→米子道と通って、松江まで行く。朝墓参り等に寄っていたお陰で出発が遅れた。また、さすがにお盆の土日とあって、所々で渋滞が発生していた。
したがって、松江に着いたのは、午後3時であった。
でも、新しいお城を見るのは、新鮮でいいな。
堀の向こうに南櫓と中櫓が見える。
大手門前の馬溜跡
太鼓櫓が見える。
左手に太鼓櫓を見上げながら、石段を登る。
しまなみ海道 ミュージアム巡り④ 村上水軍博物館 [城]
大島の片方の端、宮窪町に村上水軍博物館がある。
村上水軍博物館
まさしく、村上水軍の城をイメージしている。
村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活動した海賊衆である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は河野姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊禁止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられた(森藩)。
村上水軍博物館
まさしく、村上水軍の城をイメージしている。
村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活動した海賊衆である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は河野姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊禁止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられた(森藩)。
岐阜城③ 大パノラマ [城]
岐阜城の内部は博物館のようになっており、歴史的な資料等展示してあった。
信長坐像である。ただし、複製である。
鎧・兜
うちの部屋にもインテリアとして飾りたい。
信長坐像である。ただし、複製である。
鎧・兜
うちの部屋にもインテリアとして飾りたい。
岐阜城② 岐阜城の歴史 [城]
ロープウエイの山頂駅から天守閣まで少し歩く。
以前来た時はすごく近く感じたものだが。
途中二の丸門跡があった。
二の丸門跡
ここで岐阜城の歴史を振り返る。
1201年(建仁元年)、二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まりである。
その後廃城となるが、15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年) 斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、長井氏の支配下となる。 1533年(天文2年)、長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。 1539年(天文8年)、守護代になっていた斎藤利政(道三)は、金華山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年) 利政、守護土岐頼芸を追放。1554年(天文23年)には、城と家督を嫡子斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年) 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年) 義龍の急死により斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
1567年(永禄10年) 織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は、城を捨てて長良川を舟でくだり、伊勢長島へ逃亡する。
同年 信長は、本拠地を小牧山から稲葉山に移転し、城と町の名を「岐阜」と改めた。
1576年(天正4年)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とする。
1582年(天正10年)6月2日 信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取るが、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝に降伏する。
同年6月27日、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。同年12月20日、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫った為、和睦。三法師を引き渡す。
1583年(天正11年) 4月16日、信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。その後、信孝は切腹させられた。
その後、岐阜城の城主は、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信(幼名・三法師)と移る。
1600年(慶長5年) 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもり、落城する。
1601年(慶長6年) 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移された。
1910年(明治43年)5月15日 復興天守が再建されるが、1943年(昭和18年)2月17日 早朝に失火のため焼失する。1955年(昭和30年)6月 再建期成同盟が発足、募金が集められ、1956年(昭和31年)7月25日 鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成した。これが現在の天守閣である。
以前来た時はすごく近く感じたものだが。
途中二の丸門跡があった。
二の丸門跡
ここで岐阜城の歴史を振り返る。
1201年(建仁元年)、二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まりである。
その後廃城となるが、15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年) 斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、長井氏の支配下となる。 1533年(天文2年)、長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。 1539年(天文8年)、守護代になっていた斎藤利政(道三)は、金華山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年) 利政、守護土岐頼芸を追放。1554年(天文23年)には、城と家督を嫡子斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年) 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年) 義龍の急死により斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
1567年(永禄10年) 織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は、城を捨てて長良川を舟でくだり、伊勢長島へ逃亡する。
同年 信長は、本拠地を小牧山から稲葉山に移転し、城と町の名を「岐阜」と改めた。
1576年(天正4年)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とする。
1582年(天正10年)6月2日 信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取るが、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝に降伏する。
同年6月27日、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。同年12月20日、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫った為、和睦。三法師を引き渡す。
1583年(天正11年) 4月16日、信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。その後、信孝は切腹させられた。
その後、岐阜城の城主は、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信(幼名・三法師)と移る。
1600年(慶長5年) 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもり、落城する。
1601年(慶長6年) 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移された。
1910年(明治43年)5月15日 復興天守が再建されるが、1943年(昭和18年)2月17日 早朝に失火のため焼失する。1955年(昭和30年)6月 再建期成同盟が発足、募金が集められ、1956年(昭和31年)7月25日 鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成した。これが現在の天守閣である。
岐阜城① 信長の城 [城]
犬山城を後にして、岐阜城に向かう。
当初、名古屋城に行こうかと思ったが、地理的に岐阜城が近いと分かったからだ。
岐阜城は、彼是20年近く前に会社の関係で一度訪れたことがある。その時、岐阜城が司馬遼太郎の「国盗物語」や吉川英治の「新書太閤記」に出てくる稲葉山城だと知って、感激したものだ。
途中、かつ秀というとんかつ家で味噌カツを食べる。キャベツと御飯がお代り自由だったので、ついつい御飯を二杯食べてしまった。
岐阜城は、金華山という山の上にある。
駐車場は、少し離れたところにあり、少し待って何とか入れることが出来た。
岐阜城は、少し遠くからでも見ることが出来る。
山上の城
当初、名古屋城に行こうかと思ったが、地理的に岐阜城が近いと分かったからだ。
岐阜城は、彼是20年近く前に会社の関係で一度訪れたことがある。その時、岐阜城が司馬遼太郎の「国盗物語」や吉川英治の「新書太閤記」に出てくる稲葉山城だと知って、感激したものだ。
途中、かつ秀というとんかつ家で味噌カツを食べる。キャベツと御飯がお代り自由だったので、ついつい御飯を二杯食べてしまった。
岐阜城は、金華山という山の上にある。
駐車場は、少し離れたところにあり、少し待って何とか入れることが出来た。
岐阜城は、少し遠くからでも見ることが出来る。
山上の城