平賀源内先生遺品館とおへんろ交流サロン [その他観光・レジャー]
香川県出身の有名人として平賀源内がいる。
平賀源内は江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家である。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチである。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世人の注目を浴びる。
平賀源内は、ここ香川県さぬき市志度に生まれる。平賀源内の生家が保存されている。
平賀源内旧邸
隣に平賀源内先生遺品館があるが、平賀源内記念館が平成21年3月にオープンしたことから、展示品はそちらに移されている。
平賀源内先生遺品館
まず、こちらに入場すると、係りの人がお茶を出してくれる。一瞬の差で、団体さんが入ってきた。団体さんに便乗して、ガイドさんの解説を聞く。旧邸の裏が薬草園になっている。
平賀源内は江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家である。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチである。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世人の注目を浴びる。
平賀源内は、ここ香川県さぬき市志度に生まれる。平賀源内の生家が保存されている。
平賀源内旧邸
隣に平賀源内先生遺品館があるが、平賀源内記念館が平成21年3月にオープンしたことから、展示品はそちらに移されている。
平賀源内先生遺品館
まず、こちらに入場すると、係りの人がお茶を出してくれる。一瞬の差で、団体さんが入ってきた。団体さんに便乗して、ガイドさんの解説を聞く。旧邸の裏が薬草園になっている。
高松市石の民族資料館 [その他観光・レジャー]
少し時間を遡る。ミュージアム・カードラリーで香川県を回っている。ストーン・ミュージアムの後、同じく石に因んだ博物館「高松市石の民族資料館」を訪れる。
国内最高級石材である庵治石の産地として有名な高松市牟礼町にある。石匠の里公園内にあり、大正末期から昭和初期の石工の作業風景を再現したジオラマや、石工用具の実物資料・レプリカ・コンピューターから起動する映像装置等でわかりやすく展示をしている。
上から見た眺望である。右の方に屋島が見える。
(続く)
国内最高級石材である庵治石の産地として有名な高松市牟礼町にある。石匠の里公園内にあり、大正末期から昭和初期の石工の作業風景を再現したジオラマや、石工用具の実物資料・レプリカ・コンピューターから起動する映像装置等でわかりやすく展示をしている。
上から見た眺望である。右の方に屋島が見える。
(続く)
吉田松陰歴史館と松陰の生涯 [その他観光・レジャー]
松陰神社の境内の中に吉田松陰歴史館というのがある。これは、吉田松陰の生涯を蝋人形で描いたものだ。
吉田松陰は、文政13年(1830年)、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
御前講義
嘉永3年(1850年)、西洋兵学を学ぶためにに九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。
佐久間象山
嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。
密航をしようと、小舟を漕ぐ松陰
幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
吉田松陰は、文政13年(1830年)、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
御前講義
嘉永3年(1850年)、西洋兵学を学ぶためにに九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。
佐久間象山
嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。
密航をしようと、小舟を漕ぐ松陰
幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
タグ:蝋人形
道の駅萩往還 [その他観光・レジャー]
日帰りで松江に行った次の日である。
家内が山口県の周南市でテニスの試合があることから、車で送っていく。5時に起きて、家内の実家を6時頃出発する。
2時間程かけて、会場に到着。ずっとテニスの試合を見ていても退屈なので、萩に行くことにした。子供たちは私と一緒に行くかと思いきや、テニスの試合を見ていると言う。
周南市から萩まではさらに2時間かかる。以前、転勤で福岡にいた時、夏休み帰省する際、一度萩に寄ったことがある。
萩市に入る手前に有料道路の標識が出るが、行けども行けども料金所はない。どうやら有料道路は無料化されたようだ。その旧萩有料道路沿いに「道の駅萩往還」があった。
道の駅の中に松陰記念館というのがあるというので、車を駐車場に停めて下りてみる。
そこには、維新の英雄たちの銅像が並んでいた。
順番に見ていく。
まずはマイナーな人たちから。
左は天野清三郎、右は野村和作である。人物については、一々解説しないが、いずれも松下村塾の門下生で維新後も明治政府や民間で活躍したのだろう。
家内が山口県の周南市でテニスの試合があることから、車で送っていく。5時に起きて、家内の実家を6時頃出発する。
2時間程かけて、会場に到着。ずっとテニスの試合を見ていても退屈なので、萩に行くことにした。子供たちは私と一緒に行くかと思いきや、テニスの試合を見ていると言う。
周南市から萩まではさらに2時間かかる。以前、転勤で福岡にいた時、夏休み帰省する際、一度萩に寄ったことがある。
萩市に入る手前に有料道路の標識が出るが、行けども行けども料金所はない。どうやら有料道路は無料化されたようだ。その旧萩有料道路沿いに「道の駅萩往還」があった。
道の駅の中に松陰記念館というのがあるというので、車を駐車場に停めて下りてみる。
そこには、維新の英雄たちの銅像が並んでいた。
順番に見ていく。
まずはマイナーな人たちから。
左は天野清三郎、右は野村和作である。人物については、一々解説しないが、いずれも松下村塾の門下生で維新後も明治政府や民間で活躍したのだろう。
松江城④ 小泉八雲記念館と武家屋敷 [その他観光・レジャー]
NHKニュースで、最近動物たちが人里に下りて来て、被害を持たらしている事件が多発しているそうだ。
そういえば、この夏休み。高速道路を走っていて、急にイノシシが道路を横切った。慌てず、落ちついてゆっくりブレーキを踏み、イノシシを引かずに済んだ。イノシシにぶつかったら、イノシシは死ぬだろうが、こちらもタダでは済まないところだった。
確かに高速道路を走っていて、動物注意の標識を見るが、本当に動物が飛び出して来たのは初めてだ。
余談はこのくらいにして、松江城から、小泉八雲記念館に向かっている。
途中神社が二つあった。
松江護国神社
明治維新後の国難に殉じた旧出雲国・隠岐国出身の英霊2万2千余柱を祀る。
昭和10年(1935年)に島根県招魂社建設奉賛会が組織され、昭和14年(1939年)3月に松江招魂社として創建したが、同年4月、招魂社の制度改革により松江護國神社となった。第二次大戦後は島根神社と称していたが、日本の主権回復後の昭和28年(1953年)に元の社名に復した。
城山稲荷神社
松江市指定無形民俗文化財のホーランエンヤが行われる。
そういえば、この夏休み。高速道路を走っていて、急にイノシシが道路を横切った。慌てず、落ちついてゆっくりブレーキを踏み、イノシシを引かずに済んだ。イノシシにぶつかったら、イノシシは死ぬだろうが、こちらもタダでは済まないところだった。
確かに高速道路を走っていて、動物注意の標識を見るが、本当に動物が飛び出して来たのは初めてだ。
余談はこのくらいにして、松江城から、小泉八雲記念館に向かっている。
途中神社が二つあった。
松江護国神社
明治維新後の国難に殉じた旧出雲国・隠岐国出身の英霊2万2千余柱を祀る。
昭和10年(1935年)に島根県招魂社建設奉賛会が組織され、昭和14年(1939年)3月に松江招魂社として創建したが、同年4月、招魂社の制度改革により松江護國神社となった。第二次大戦後は島根神社と称していたが、日本の主権回復後の昭和28年(1953年)に元の社名に復した。
城山稲荷神社
松江市指定無形民俗文化財のホーランエンヤが行われる。
愛媛県総合科学博物館③ [その他観光・レジャー]
最後に産業館と特別展を紹介する。愛媛県の伝統産業と基幹産業を紹介している。
F1のレーシングカーが展示してあった。愛媛の企業が作っているのか?
ダイナマイト発破状況再現
1882年、別子銅山では、日本の鉱山としてははじめてダイナマイトが本格的に使用された。ダイナマイトは、岩盤にちりばめるように埋め込み、1本ずつ、タイミングをずらしながら導火線に火をつけて爆発させた。
別子1号機関車
伊予鉄道1号機関車
タオル自動織機とジャガード機
タオル自動織機は、タオルを織るときに、よこ糸がなくなっても、運転を止めずに、自動的によこ糸を補給する機械。製造能率が非常によくなった。
ジャガード機は、タオル織機の上に取り付けて、タオルに模様を織り込む装置。この複雑で美しい模様が今治タオルの特徴である。
展示してある機械は、どちらも昭和30年代に製造されたもの。
F1のレーシングカーが展示してあった。愛媛の企業が作っているのか?
ダイナマイト発破状況再現
1882年、別子銅山では、日本の鉱山としてははじめてダイナマイトが本格的に使用された。ダイナマイトは、岩盤にちりばめるように埋め込み、1本ずつ、タイミングをずらしながら導火線に火をつけて爆発させた。
別子1号機関車
伊予鉄道1号機関車
タオル自動織機とジャガード機
タオル自動織機は、タオルを織るときに、よこ糸がなくなっても、運転を止めずに、自動的によこ糸を補給する機械。製造能率が非常によくなった。
ジャガード機は、タオル織機の上に取り付けて、タオルに模様を織り込む装置。この複雑で美しい模様が今治タオルの特徴である。
展示してある機械は、どちらも昭和30年代に製造されたもの。
愛媛県総合科学博物館① [その他観光・レジャー]
時間は前後するが、ここで夏休みの時期に戻る。
子供を連れての実家への帰省のついでにあちこちに遊びに寄るのが、我が家の夏休みのパターンだ。しかし、子供が大きくなってくると、なかなか時間の調整が難しくなってくる。
まず、この日の起点は徳島である。徳島道を愛媛県に向かい走り、しまなみ海道を渡って、広島県の家内の実家に行く。
途中、ミュージアム・カードラリーの一環として、何ヵ所か寄ろうと思ったが、出発が昼過ぎになってしまい、一ヵ所しか寄れなかった。その唯一寄ったところが、愛媛県総合科学博物館である。
愛媛県総合科学博物館
子供を連れての実家への帰省のついでにあちこちに遊びに寄るのが、我が家の夏休みのパターンだ。しかし、子供が大きくなってくると、なかなか時間の調整が難しくなってくる。
まず、この日の起点は徳島である。徳島道を愛媛県に向かい走り、しまなみ海道を渡って、広島県の家内の実家に行く。
途中、ミュージアム・カードラリーの一環として、何ヵ所か寄ろうと思ったが、出発が昼過ぎになってしまい、一ヵ所しか寄れなかった。その唯一寄ったところが、愛媛県総合科学博物館である。
愛媛県総合科学博物館
文学館・であい博・桂浜 [その他観光・レジャー]
竹林寺を出た後、まず高知県立文学館を訪れる。これは、ミュージアム・カードラリーの一環だ。
ちょうどピーターラビット展と土佐藩歴代藩主展を開催していた。
高知県立文学館は、高知城に隣接している。有名な山内一豊像の奥にある。
以前訪れた時は、改装工事中で中に入れなかった。
特別展には特に興味はなかったが、土佐出身の作家の作品を展示しており、この人も高知出身かと認識を新たにした作家が多かった。
ついでに、高知城も遠くから眺める。
ちょうどピーターラビット展と土佐藩歴代藩主展を開催していた。
高知県立文学館は、高知城に隣接している。有名な山内一豊像の奥にある。
以前訪れた時は、改装工事中で中に入れなかった。
特別展には特に興味はなかったが、土佐出身の作家の作品を展示しており、この人も高知出身かと認識を新たにした作家が多かった。
ついでに、高知城も遠くから眺める。